展示品>館長室たより 2012年


感謝の出会いと広がる三島世界(近況報告)

 三島由紀夫ゆかりの文学館を個人で開設して5年になります。開館前、ご遺族が館名をご了承下さったのをはじめ、以降もいろんな方々のご支援を頂きました。
 今年の企画展のテーマ「『見る三島』と『見られる三島』」においても、劇的なご支援を頂きました。「見られる三島」の部分で、昭和43年のファッション雑誌「NOW」のグラビアに、三島が写真掲載されている資料があります。撮影者は写真家の高梨豊氏でした。写真は6枚あり、そのすべてを観覧者に見て貰うためには複写しなければなりません。ところが、著作権法ではそれは許されていません。そこで高梨氏の複写許諾を得ようと日本写真家協会の事務局に連絡先を尋ねました。協会では1つの電話番号を教えてくれました。その番号に電話をしてみると、何と高梨氏ご本人が電話口に出られて、趣旨をお話ししました。高梨氏はもちろん写真のことを良く覚えておられ、「いいよ」と一言でご了承下さいました。それだけでなく、複写の仕方、ボードへの貼り方に加えて、写真に対するご遺族の心情もご助言下さいました。本当に有り難く思いました。
 目下、来年の企画を絞り込んでいるところですが、その準備の段階でもいろんな方から身に余るご厚意を頂きました。来年は、三島の俳句への思いを展示できないかと考えています。「俳句」の言葉のあるタイトルを全集の索引で調べました。「俳句と孤絶」というタイトルがあり、その初出俳誌「青」を探しました。図書館で調べて貰うと、「青」はすでに終刊となり、主宰の波多野爽波氏は亡くなっておられました。しかし、終刊時の同人であった岸本尚毅氏の連絡先を教えてもらい、早速、岸本氏にご連絡したところ、「青」全号を所蔵しておられる、編集長をしておられた島田牙城氏をご紹介下さいました。島田氏にご連絡して数日、分厚い封書が届きました。お願いしていたのは、「俳句と孤絶」掲載誌「青」の表紙と掲載頁、奥付の写しだったのですが、封書にはその他の写しも同封されていました。三島が俳句について寄稿した原稿はほかにも沢山あったのでした。そのすべての掲載号「青」の表紙、掲載頁、奥付の写しに加えて、写し資料の一覧と波多野氏の略歴を添えて送って頂いたのでした。本当に頭の下がる思いでした。
 「俳句」だけで探していましたが、三島が折々に俳句に対して持っていた思いが目の前に広がりました。同時に、三島と、学習院2年先輩であった波多野氏との時間を超えた弛まぬ交流を知り、三島の誠実さも改めて認識することができました。三島は一つの原稿をもなおざりにせず、持論を自在に展開していました。
 こうしてご協力下さった多くの方々のご厚意にお応えするためにも、恥ずかしくない企画展にしなければと目下準備を進めているところです。


(隠し文学館 花ざかりの森 館長)


全国文学館協議会会報 第54号(2012年10月31日発行) 寄稿


―三島由紀夫、三十五歳の軌跡をたどる―

 三十五歳の三島由紀夫も、夥しい量の仕事をしている。
 作家の仕事は、書いたものが雑誌に発表されたり、単行本として刊行されたりした年月日の記述とともに文学史に残る。しかし、月刊雑誌の場合でも、一月号が一月に発売されることはない。前年の十二月か、早いものでは十一月中に発売される。実際に原稿が書かれたのはかなり前ということになる。
 三島の三十五歳の足跡をたどろうとして、ただ昭和三十五年に刊行、発表された作品をたどっても正確な軌跡とは言えないかもしれない。一応昭和三十五年の雑誌、単行本の発売日、刊行日を基本にしながら、前後の年に留意して軌跡をたどっていきたい。
 展示した三島三十五歳の詳細な年譜では、いくつかの作品で実際に脱稿した日も記載している。これは三島の日記や編集者の記録から推測された日である。

 この年の三島は、二つの小説を雑誌に連載している。
 一つは「宴のあと」で、雑誌「中央公論」の一月号から十月号まで連載している。(八月二十八日(日)に擱筆)
 文庫本の頁から逆算してみたが、四百字詰め原稿用紙でおよそ四百枚であるから、毎月ほぼ四十枚が掲載されたことになる。
 高級料亭の女将福沢かづと、元外相の野口雄賢が結婚する。野口は東京都知事選に革新政党から立候補し、かづは金をつぎ込んで応援する。しかし理想主義者の野口は、それを許さない。結果は野口の敗北。かづは保守党の元総理などの力を背景に、料亭を再開し、二人は協議離婚をする。成り上がりのかづの、なりふり構わぬ生き方が政治的で、正義の政治家野口が観念の人でしかなかったという、皮肉な主題が描かれた。
 元外相の有田八郎をモデルにした小説と言われているが、三島自身は「政治と恋愛のからみあい」を主題にしたフィクションとしている。
 のちに、プライバシー侵害で裁判に発展した。(後述)

 もう一つは「お嬢さん」で、月刊雑誌「若い女性」に一月号から十二月号まで連載している。
 こちらは新書版の頁から逆算して、やはり四百字詰め原稿用紙でおよそ四百五十枚であるから、毎月平均三十八枚ほどが掲載されたことになる。
 三島の「永すぎた春」などとともに昭和三十年代の社会風俗小説に位置づけられている。社内雑誌の新年号のグラヴィアに家族写真が載っている。福徳円満そうな父一太郎、つつましい日本的な母かより、長男正道の模範的な青年ぶり、その美しい若い妻秋子、一人娘の大学生のかすみは幸福そうな微笑を浮かべている。しかし、〈彼女の微笑には、かすかなわざとらしさ〉があった。そのかすみのかすかなわざとらしさが、幸福な一族の崩壊のドラマを演出していく。
 〈人生の壊れやすい模型〉を描き、三島の反社会性の表出を読み取ることができる。

 それぞれ、その前月の十日ごろに発売される雑誌に掲載されている。

 戯曲、短篇小説も数多く発表している。
 戯曲は、「熱帯樹」三幕を季刊雑誌「聲」六号〈一九六〇・冬〉に発表している。
 一九五九年のある秋の日の午後から深夜の間に一家族に起きた事件として戯曲化したもので、「風刺劇のふりをした夢幻劇」とも言われている。
 また、「弱法師(よろぼし)~近代能楽集の内 一幕」を同じく季刊雑誌「聲」八号〈一九六〇・夏〉に発表している。
 謡曲の「弱法師」によった現代劇で、晩夏の午後から日没に至る家庭裁判所で、調停委員を挟んで二組の夫婦が親権を争う。次々と畳み込んで行く台詞の迫力に注目との評がある。
 短篇小説は、「百萬圓煎餅」を雑誌「新潮」九月号に発表している。
 浅草の風俗とその底辺で生きる若い男女を、詩的に描いた短篇である。
 また、「スタア」を雑誌「群像」十一月号に発表している。
 映画出演をきっかけに書かれた作品で、三島の美学上の拠り所である「仮面」の問題が表れているとも言われてる。
 そして、十二月一日に発売の雑誌「小説中央公論」冬季号に「憂國」を発表している。(十月十六日(日)=擱筆)
 二・二六事件突発の昭和十一年二月二十六日、近衛歩兵一連隊の武山信二中尉は、反乱軍に加わった親友たちを勅命によって討たねばならなくなる。事態が避けられないと悩んだ武山は、新婚間もない妻の麗子とともに自刃する。三島文学の中で、「政治」と「エロス」との接点を定着した最も完成度の高い作品とも言われている。

 評論は二つの雑誌に連載し、三島らしい風刺的な論理を展開している。
 雑誌「婦人公論」の「巻頭言」を一月号から十二月号まで連載している。
 内容は「一九六〇年代はいかなる時代か」「青春の敵」「外来芸能人について」「早婚是非」「べビィ・ギャング時代」「一億総通訳」「後家と英雄」「バレエ日本」「暗殺について」「女性の政治能力」「(「婦人公論」の)創刊四十五周年を祝う」「一九六〇年の若者」の十二編である。
 この「巻頭言」のうち、「青春の敵」の草稿を展示した。
 三島の友人であった吉田健一の「若い人の作品をほめそやすことは、若さに対して失礼な仕打ちであって、若さの可能性をお節介にも限定してしまう行為だ」という発言に触発されて、「近ごろ、青春におもねる文章の多いこと、おどろくばかりである」。ここらで世の大人どもは「晴れやかな、憎々しい、堂々たる、立派で壮大な、天晴れな敵になるべきだ」と、痛快な論旨を展開している。

 雑誌「婦人倶楽部」にも、「社会料理三島亭」のメインタイトルで一月号から十二月号まで連載している。
 内容は御惣菜料理「愛の鐘」、栄養料理「ハウレンソー」、カンヅメ料理「自動車ラッシュ」、お子様料理「試験地獄」、折詰料理「日本人の娯楽」、アメリカ料理「グッド・デザイン」、いかもの料理「大人の赤本」、携帯用食品「カメラの効用」、宇宙食「空飛ぶ円盤」、鳥料理「赤い羽根」、栗ぜんざい「ミーハー奥さん」、七面鳥料理「クリスマス」の十二編の評論である。

 また七月から十月まで、読売新聞・夕刊の「発射塔」というコラム欄を担当している。
 内容は「日常生活直下の地獄―庄野潤三『静物』を読む」「都市計画と文学 ―シェペングラー『西洋の没落』」「少数意見の魅力 ―映画『宇宙の子供』」「推理小説批判 ―クイーン『Yの悲劇』」「短篇は滅びるか」「文壇衣装論」「グロテスク―映画『地獄』を見て」「たまに会ふ人―木山捷平(しょうへい)『枕頭台』」「古典現代語訳絶対反対」「ヒロイズム ―石原慎太郎『挑戦』」「古くなる覚悟」「青春のにほひ」「苦い生活 ―映画『甘い生活』」「異教的」「連載小説是非」「大喜劇御案内」「歴史小説と現代小説」の十七本のコラムである。ほぼ一週間に一本の割合で書いている。

 雑誌や新聞の単発の評論も沢山書いている。
「ハート・ブレイク病院―トラブル一分間治療室」(雑誌「マドモアゼル」昭三十五・一月号)
「カフカ的―作家の目」(雑誌「新潮」昭三十五・一月号)
「侃侃諤諤(けんけんがくがく)を駁(ばく)す―交友断片」(雑誌「群像」昭三十五・一月号)
「同人雑記」(季刊雑誌「聲」六号〈一九六〇・冬〉)
「今年のプラン」一月三日 (読売新聞)
「オレは実はオレぢやない―村松剛氏の直言に答へる」一月十三日 (産経新聞)
「駒込村―わが愛する風景」グラビア(「週刊コウロン」一月二十六日号)
「出演の弁〈からっ風野郎〉」グラビア(「週刊コウロン」二月二十三日号)―二月十日大映撮影所で執筆
「映画初出演の記」二月二十四日 (読売新聞)
「からっ風野郎の情婦論」(雑誌「講談倶楽部」四月号)
「書評」『エロチシズム』(季刊雑誌「聲」七号〈一九六〇・春〉)
「受難のサド」四月十八日(月)(週刊読書人)
「主題歌―からっ風野郎」(雑誌「明星」六月号)
「表紙の女性―若尾文子さん」(「週刊コウロン」五月十日号)
「オセロー雑観」五月十三日(月) (朝日新聞)
「学生の分際で小説を書いたの記」「作家への道」(五月十五日)に収録(思潮社)
「未来をあきらめる時代・母との写真併載」(「週刊明星」六月五日号)
「一つの政治的意見」六月二十五日(土) (毎日新聞)
「リオの謝肉祭」(ソノシート付、雑誌「朝日ソノラマ」八号) 七月二十一日
「アンケート 戦後小説ベスト五」(雑誌「群像」八月号)
「黒いオルフェを見て」(雑誌「スクリーン」八月号)
「同人雑記」(季刊雑誌「聲」八号〈一九六〇・夏〉)
「偉大な官能の詩―ベラフォンテ初公演」七月十六日 (毎日新聞)
「ある日私は」(「週刊読売」八月二十一日号)
「プライヴァシイ」(タウン誌「うえの」十一月号)
「一旅行者と大統領」 十一月二十一日(毎日新聞)
「夢の原料」(学習院誌「輔仁會雑誌」一八二号・十一月十六日)
「口角の泡―〈近代能楽集〉ニューヨーク試演の記」(季刊雑誌「聲」十号・終刊号〈一九六一・冬〉)
 記録に残っていて把握できるだけでも二十八編になる。

 同時代の作家の単行本や作品集、古典の全集にも多くの解説や推薦文、随筆を寄せている。
 推薦・坂上弘著『ある秋の出来事』の帯(中央公論社) 一月十日
 推薦・神西清訳『チェーホフ全集』の内容見本(中央公論社)二月
 独白劇「プロゼルピーナ」『ゲーテ全集』第四巻、翻訳初収録・解説(人文書院) 三月二十五日
「友情と考證」『新選現代日本文学全集』二十一巻、月報に収録(筑摩書房) 六月
『新鋭文学叢書』八巻〈石原慎太郎集〉の編集解説(筑摩書房) 七月十五日
「序」春日井建著「未成年」(作品社) 九月一日
「雨月物語について」『古典日本文学全集』第二十八巻「江戸小説集(上)」に収録(筑摩書房) 九月九日
「推薦」庄野潤三著『静物』の帯(講談社) 十月十五日
「僧侶であること」『日本文学全集』第六三巻に収録〈武田泰淳集〉の月報(新潮社) 十月
「伊東静夫全集推薦の辞」(詩誌「果樹園」)十月
「井上宗和論」・『ヨーロッパの街角』〈マドリッドの大晦日〉(あゆみ書房)十月
「推薦」円地文子著『女面』(ミリオン・ブックス、集英社)十月
「世界紀行文学全集」第十八巻〈ふしぎな首都ハバナ・ポートオ・フランス〉(修道社) 十一月二十五日
 それぞれ丁寧な文学論を展開している。

 また、硬軟多様な座談や談話にも応じている。
「第六回同人雑誌賞銓衡座談会/伊藤整ほか五名」(雑誌「新潮」一月号)
「座談 初春・文学よもやま話/川端康成・高見順」(新潟日報) 一月一日
「談話 初の映画出演と舞台演出」(東京新聞) 一月三日
「座談 小説的と戯曲的」/花田清輝他三名」(雑誌「文學界」二月号)
「対談 モテルということ/石原慎太郎」(雑誌「日本」二月号)
「談話 ホーケン亭主と箱入女房〈この人と十分間〉」(雑誌「婦人生活」二月号)
「虚頭会談十三・浪費王とニューフェイス/永田雅一」(「週刊コウロン」二月二十三日号)―グラビア「三島由紀夫の〈からっ風野郎〉」
「談話 映画俳優オブジェ論」(京都新聞・夕刊) 三月二十八日
「座談会『サロメ』と三島由紀夫その舞台/矢野峰人、燕石猷ほか二名(東横ホール別室で四月十六日に収録)(小誌「古酒」第三冊(「サロメ」特輯(とくしゅう))、新樹社、日夏耿之介(こうのすけ)主宰の雑誌)五月三十一日
「座談 女性はこんな理由で失恋する/岡本愛彦(よしひこ)ほか」(雑誌「マドモアゼル」九月号)
「座談 近代文学の二つの流れ―谷崎的なものと志賀的なもの/伊藤整、佐伯彰一」(雑誌「群像」十月号)
「対談 演劇と文学についてのまじめな放談/福田恒存」(雑誌「風景」創刊号) 十月一日
「新人賞選考座談会」(雑誌「中央公論」十一月号)
「アトリエ通信」「対談 外国歩きあれこれ/長岡輝子」(文学座) 十一月
 それぞれ歯に絹を着せず独自の見解を披瀝している。

 コンサートや三島原作の芝居のプログラムにも随筆を寄せている。
 一月七日(木)~二十三日(土)戯曲「熱帯樹 悲劇三幕二十三場」…第一生命ホールで文学座により初公演(松浦竹夫・演出、キャスト・杉村春子、山崎努ほか)―プログラムに「『熱帯樹』の成り立ち」
 三月二十三日(水)「からっ風野郎」大映・映画封切(監督・増村保造)―プログラムに「初出演の言葉」
 四月五日(火) オスカァ・ワイルド原作・日夏耿之介訳「わが夢の『サロメ』」(「文學座」四月号)
 七月七日(木)「推薦」映画「黒いオルフェ」プログラム
 七月「危機の舞踏」土方巽 DANCE EXPERIENCE(体験) の会プログラム
 十月十六日「純粋とは」(六五〇 EXPERIENCE の会プログラム)
 それぞれの舞台の狙いや楽しみを率直に述べている。

 この年、映画出演も果たしている。
 二月一日(月) 大映映画「からっ風野郎」(増村保造監督)の撮影開始。自ら朝比奈武夫役として出演。撮影中は、午前七時起床、午後十時就寝を日課。エレベターでの射殺シーンでは、転倒して頭に怪我をして虎ノ門病院に入院(三月一日から三月十日)。
 三島は「からっ風野郎」の二枚目の少し崩れた敵役を主演した。このあと、自作自演の映画「憂国」や、「人斬り」にも出演している。
 三月 映画「からっ風野郎」主題歌「E・P・レコード・からっ風野郎」三島由紀夫=作詞・歌唱、深沢七郎=作曲(キング・レコード)

 また、記録に残っている書簡もある。
 一月七日(木) オスカァ・ワイルド原作「サロメ」の翻訳者である日夏耿之介宛て書簡(「サロメ」の配役など)
 三月十五日(火) 日夏耿之介宛て書簡(「サロメ」について)
 四月十九日(火) 日夏耿之介宛て書簡(東京公演の無事千秋楽の報告、各紙面の批評の報告)
 七月二十三日(土) 円地文子宛て書簡(慿霊(ひょうれい)小説について)
 七月十四日(木) 中村光夫にハガキを出す。
 十月十八日(火) 中村光夫宛て書簡
 十一月十三日(火) 中村光夫宛て書簡
 それぞれ丁寧に自らの心情を綴っている。

 戯曲、或いは演出を担当する演劇の稽古にも小まめに立ち会っている。
 一月十五日(金)「サロメ」第一回スタッフ会議
 一月二十日(水)「サロメ」本読み開始
 三月一日(火)「サロメ」の稽古
 三月十六日(水)~四月四日「サロメ」舞台稽古
 四月五日(火)~十六日(土)オスカー・ワイルド原作「サロメ」…東横ホールで文学座により初公演。演出・三島由紀夫、キャスト・岸田今日子、仲谷昇ほか。
 七月 「白蟻の巣」…文学座アトリエにより試演(中西由美演出)

 また、昭和三十六年二月十五日「お嬢さん」…大映で映画化封切(監督・弓削太郎 キャスト・若尾文子 川口浩)されている。

 そのほかにも、三島にとっての日常の生活がある。
 散髪、日光浴、産経ジムでボディ・ビル練習、ハリ・ベラフォンテ公演を観賞などなど。 
 八月五日(金) 快晴。午後一時半から三時半まで、庭で日光浴。夕方、庭で三十分ほど赤ん坊の相手をする。(昭和三十三年六月一日、川端康成の媒酌で結婚。三十四年六月二日、長女紀子誕生。長男威一郎は三十七年五月二日生まれ)
 六月二十六日(日) 快晴。友人夫婦と品川プリンス・ホテルのプールへ泳ぎにゆく。銀座で夕食。後、浅草へゆき、新世界、マジックランドなどに入る。(「百萬圓煎餅」の素材にもなる)
 十月ごろ 東調布警察署に吉川正實師範を訪れ、剣道の指導を受ける。
 三月二十五日(金) 文学座第二十四回創立記念日三賞の授賞式に出席
 五月 鈴木力衛、長岡輝子、鳴海四郎、安堂信也らと共に文学座の企画参与となる。
 七月一日(金) 永井尚志(玄蕃頭)七十年忌の大法要に出席(日暮里の本願寺・「桜木会」毎年開忌)

 世界旅行にも出かけている。
 十一月一日から翌年一月にかけ、夫人同伴で世界一周旅行に出発(カメラはミノックス持参)。アメリカ、ポルトガル、スペイン、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、ギリシア、アラブ連合などを回る。
 十一月一日(火)  ニューヨーク、アスター・ホテル滞在。グリニッチ・ヴィリニッヂのシアター・ド・リイス劇場で、「近代能楽集―葵上・班女」の試演を夫人同伴で観る。デ・リース劇場でエドワード・オルビーと対談。
 十一月四日(金) ハワイ滞在。
 十一月七日(月) ロサンゼルス、ゲイロード・ホテル宿泊。
 十一月八日(火) アンバサダー・ホテル宿泊。米大統領選でケネディ当選。
 十二月十五日(木) パリで、ジャン・コクトオと会談。
 十二月二十二日(木) 雪のハンブルグ空港に着く。
 十二月三十一日(土) イタリアへ向う。
 昭和三十六年一月二十日(金) 世界周遊から帰国。

 そして、「世界旅行から帰った三島由紀夫夫妻」とグラビア付きで(「週刊公論」二月六日号)紹介されている。

 こういう活動をしながら、八月十五日(月)から二十五日(木)まで、長編「獣の戯れ」取材のため浜名湖、西伊豆の安良里へ行っている。

 一方で、単行本、文庫本、作品集が出版されていた。
 一月十五日(金)『新選現代日本文学全集』三十一〈三島由紀夫集〉(筑摩書房)収録作品「仮面の告白」「愛の渇き」「青の時代」ほか
 二月五日(金) 評論『続・不道徳教育講座』(中央公論社)
 四月十日(日)『夏子の冒険』(角川文庫)
 五月『青年の脚本シリーズ』五「邯鄲」収録(医歯薬出版)
 九月十五日(木)『金閣寺』(新潮文庫)解説・中村光夫
 十一月五日(土)『美徳のよろめき』(新潮文庫)解説・北原武夫
 十一月十五日(火)『宴のあと』(新潮社)
 十一月二十五日(金)『お嬢さん』(講談社)装幀・中林洋子
 十二月十日(土)『永すぎた春』(新潮文庫)解説・十返肇
 昭和三十六年一月三十日(月) 小説集『スタア』(新潮社)収録作品「スタア」「憂國」「百万円煎餅」

 この年、世界各国で翻訳出版もされている。
 英訳『仮面の告白』(英・セッカー)(英・ピーター・オーエン)、英訳『真夏の死』(日本出版貿易)、オランダ訳『潮騒』(アムステルダム、ミューレンホフ)、フィンランド訳『潮騒』(オタワ)

 また、世界各国で「近代能楽集」が上演されている。
 四月 近代能楽集「道成寺・班女」…メキシコシティのグラネロ劇場で公演
 七月 近代能楽集「葵上」…オーストラリアケラングのメモリアル・ホールで公演
 七月 近代能楽集「綾の鼓・葵上・班女」…ニューヨークのデ・リース劇場で公演
 このほかにも把握されていない上演があるかもしれない。

 この年の政治・社会情勢は騒然としたものであった。
◆一九六〇年(昭和三十五年)
 一月十九日(火) 日米新安保条約調印
 六月十五日(水) 安保反対デモで、東大学生樺美智子さんが死亡
 六月十八日(土) 国会周辺の安保反対デモを、国会前、記者クラブのバルコニー上から取材。
 六月十九日(日) 日米新安保条約自然承認
 十月十二日(水) 浅沼社会党委員長が、右翼少年に刺殺される。
 十一月十日(木) 深沢七郎の「風流夢譚」が中央公論十二月号に掲載される。
 池田内閣が所得倍増計画を発表し、カラーテレビの本放送が開始され、ダッコちゃんが流行した年でもある。

 そして翌年
◆一九六一年(昭和三十六年)
 世界旅行から帰ってみると、深沢七郎の「風流夢譚」が中央公論に載ったのは、三島が編集長に強力に推薦したからであり、三島に責任があるという噂がひろがっていた。
 三島の「憂国」の原稿を編集者に渡す際、「風流夢譚」と並べて乗せたらと言ったという噂である。
 一月の終わりごろから、三島は頻繁に自身と家族への脅迫を受け始めた。
 そして、二月一日(水)に嶋中事件(右翼少年が中央公論社社長宅を襲撃、家人を殺傷)が起きた。
 警察は三島の「身辺警護」を申し出、護衛の警官は二月から三月半ばまで、同家に起床し、行く先々に付いて回ったそうである。
 そして、三島は声明を発表した。
 二月二十日(月)「三島由紀夫氏の声明―〈風流夢譚〉の推薦者でない(談)」 (「週刊新潮」二月二十七日号)
 この中で三島は、「これはとんでもない誤解で、推薦した事実さへない」「それは"編集権"の存在を知らない者のいふことで、編集権を侵害しないといふモラルは、ぼく自身いつも守つてきたはずだ」とはっきり噂を否定している。

 また、三月十五日(水) 長編「宴のあと」がモデル問題を惹起し、元外相・有田八郎よりプライバシー侵害のかどで提訴される。(昭和四十一年十一月に和解成立)

 このように、三島三十五歳の軌跡をたどってきたが、この多忙な一年を見る限り、「豊饒の海」を意識した形跡は見えない。しかし、三島が後に書いた「『豊饒の海』について」という随筆に、「昭和三十五年」からそろそろと思っていたという記述がある。
 それは、「豊饒の海」の第二巻「奔馬」を書き始めた昭和四十四年二月二十六日の毎日新聞・夕刊に掲載された。
 三島は昭和二十一年から二十五年頃、すでに転生譚に興味があったが三十五年頃まで忘れていたようである。
「さて昭和三十五年ごろから、私は、長い長い小説を、いよいよ書きはじめなければならぬと思つてゐた」
 三島は昭和三十五年以降、同年と同じような多忙な作家生活を送りながら、この長い長い小説の構想を練り始めたようである。

 日記などの記録に残っている部分を挙げてみる。
◆一九六二年(昭和三十七年)
 五月九日 転生を軸としたライフ・ワーク「豊饒の海」の構想が成る。
◆一九六三年(昭和三十八年)
 九月二十七日 「さ来年あたり、大長篇を計画しております」村松剛への書簡
◆一九六四年(昭和三十九年)
 五月六日 随筆「夢と人生」「日本古典文学大系」第七十七巻月報。転生の物語「浜松中納言物語」に触れて。
 五月二十七日 「浜松中納言物語」より、「春の雪」のライト・モチーフが浮かぶ。
◆一九六五年(昭和四十年)
 二月二十四日 京都の光明院、武の内御所を訪問
 二月二十六日 奈良の円照寺を訪問
 三月一日 「話題の作家三島由紀夫―六ヶ年計画で大長篇を」(週刊読書人)
 ついに、
 六月一日 「豊饒の海」第一巻「春の雪」起稿

 そして、次のように雑誌「新潮」(新潮社)に連載され、単行本も刊行された。
「豊饒の海」第一巻「春の雪」(王朝風の恋愛小説)
 一九六五年(昭和四十年)九月号から一九六七年(昭和四十二年)一月号まで連載(計七四〇枚)
 一九六九年(昭和四十四年)一月刊行(新潮社)
「豊饒の海」第二巻「奔馬」(激越な行動小説)
 一九六七年(昭和四十二年)二月号から一九六八年(昭和四十三年)八月号まで連載(計七五〇枚)
 一九六九年(昭和四十四年)二月刊行(新潮社)
「豊饒の海」第三巻「暁の寺」(エキゾチックな色彩の心理小説)
 一九六八年(昭和四十三年)九月号から一九七〇年(昭和四十五年)四月号まで連載
 一九七〇年(昭和四十五年)七月刊行(新潮社)
「豊饒の海」第四巻「天人五衰」(書く時点の事象を取り込んだ追跡小説)
 一九七〇年(昭和四十五年)七月号から一九七一年(昭和四十六年)一月号まで連載
 一九七一年(昭和四十六年)二月刊行(新潮社)

 

全国文学館協議会  紀要五号(二〇一二年三月三十一日)寄稿

※「紀要」は縦書きですが、都合により横書きにしてあります。

第6回展示情報部会の収穫(近況報告)

 昨年11月に旭川市で開催された展示情報部会はとても有意義でした。初めての土地でしたので部会以外でも随分収穫がありました。飛行機の都合で前日の13日中に旭川に入り、午後には富良野へ行って来ました。14日の午前には、「川村カ子トアイヌ記念館」、「旭川市博物館」、そして「旭川市科学館」を訪ねました。旭川の歴史と文化の魅力に直に触れることができたように思いました。
 続く午後からの展示情報部会は、常に企画と展示に腐心している当館にとって大変勉強になりました。当館は、三島由紀夫を対象作家として、2008年3月に個人で開設した文学館です。例年、3月の20日間ほどを定期開館とし、あと11月までは予約来館としています。2008年の第1回の企画は「よみがえる三島由紀夫展」として、三島の生涯が一望出来る展示にしました。2009年は、26歳の三島の「批評に対する私の態度」という草稿を軸に、この評論が書かれた経緯を展示しました。2010年は「『潮騒』の成立をめぐって」をテーマに、三島29歳の作品である「潮騒」について、三島自身の「『潮騒』ロケ随行記」「『潮騒』のこと」の草稿などを展示し、「潮騒」の成立過程が分かる企画にしました。2011年は「三島、35歳の軌跡をたどる」として、昭和35年の作品を網羅し、「豊饒の海」への助走をたどりました。こうしてほぼ5年ごとの三島に光を当てて来ました。
 そうして企画を進めていくうちに、"垂直展示"という言葉を思い付きました。「解釈」を垂直に深めるという意味のつもりです。そこで、ある疑問が出てきました。三島文学にはいろんな解釈がされています。また、沢山の研究者がいらっしゃるのに、自分の一方的な解釈を展示して良いものか。これは、解釈の押し付けにならないだろうか、という疑問です。もしかしたら、こういう見方は間違っているのではないだろうか。いつも、そういう不安とジレンマがありました。
 今度の部会では、こんな疑問に1つの指針を与えて貰ったように思いました。解釈が間違っていないかを恐れる必要はないと思えるようになったのです。1人の作家、或いはその作品に対していろいろな意見があるのは当然です。企画展がきっかけになって論争にでも発展すればそれだけ三島文学の活性化に繋がります。そういう風に思えるようになりました。
 これまでは、できるだけ偏らない企画展示を心掛けていましたが、これからは、むしろ偏りを恐れないようにしていきたいと思います。しかし、深みのある展示を工夫しなければならないのはいつも同じです。目下、そういう思いで3月からの企画展Ⅴ「見る三島と見られる三島」の準備をしているところです。
 お世話を頂いた、事務局、旭川の各文学館の皆様に心からお礼を申し上げます。


(隠し文学館 花ざかりの森 館長)


全国文学館協議会会報 第52号(2012年1月31日発行) 寄稿