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小さな文学館の大きな喜びⅡ(近況報告)

 当館は年1つの企画で運営しています。本年の2月27日から3月21日までの9回目の企画展は「三島、決断の時―『盗賊』から『仮面の告白』へ」でした。
 定期開館の期間を過ぎましても、11月末までは予約でのご来館を受けており、ちらほらとお申込み頂きお迎えしました。そんな中で、二つの団体の皆さんをお迎え出来たのは有り難かったです。
 最初の団体は、6月にお迎えしたお隣の石川県能美市読書会の「文学散歩」の一行35名の皆さんでした。能美市立図書館の担当の方が案内されて来られました。あまりバスが大きくて導入路へ入れず、近くの広場までお迎えに行きました。まず、館設立の経過と、今回の企画の概要をご説明してから、展示を見て頂きました。貸し切りの館内は、あちこちで三島談義が交わされ、ご質問もお受けしました。これだけ沢山の皆さんを一度にお迎えしたのは開館以来初めてだったかも知れません。当館を第一目的に計画された研修会とかで、私の日程と調整してお迎えしたものでした。皆さん満足してお帰り頂いたように思います。
 もう1つの団体は、8月に遥か台湾からお迎えしました。静宜大学の日本文学研究者や雑誌「台湾文学」の代表者など、13名の皆さんでした。こちらの皆さんもバスでしたが、中型でしたので文学館の駐車場に停めて貰えました。大体日本語が通じる皆さんでしたが、通訳を通して、やはり開館の由来や企画の概要をご説明してから展示を見て頂きました。これほど館内に中国語が飛び交ったのも初めてでした。来年の企画関係で準備していた「金閣寺」の中国語訳が2冊ありましたので、お見せしました。すると、うちの1冊を手に取り、「この本は、私の恩師が訳したものです。これは良い訳でした」。そして、別の1冊については、「これは誤訳が多かった」と率直な意見を述べられました。ひと通り観覧を終えられてから、私も加わって記念撮影をしました。この皆さんもやはり満足してお帰り頂いたように思います。数日して、その集合写真を台湾から送って頂きました。
 これらの団体の皆さんに加えて、8月には、誠に光栄なお客さんもご来館されました。山中湖村の三島由紀夫文学館にも深く関わっておられるS先生です。お1人でゆっくり観覧されたあと、文学館の運営について、いろんなお話をして頂きました。その中で、「展示に稚拙さがない」との、当館へのご感想を頂き、大変に有り難く思いました。
 このように、今年も特記すべきことの多い年でした。
 さて、来年3月の10回目の企画展は、「『金閣寺』の成立をめぐって」です。目下、準備作業は最終段階に入っています。



(2016年10月)
(隠し文学館 花ざかりの森 館長)

全国文学館協議会会報 第66号(2016年11月5日発行) 寄稿


―三島、憧れの作家レイモン・ラディゲを語る―

三島由紀夫は、十五歳から晩年の四十五歳まで、折に触れて夭折の天才作家レイモン・ラディゲについて熱く語っている。

「ラディゲ」を語った著述一覧
十五歳 一九四〇(昭和十五)年
 夕焼をみたこと         七月二十六日(擱筆)評論
十六歳 一九四一(昭和十六)年
 東徤(文彦)宛(学習院の先輩、文彦は筆名)  一月二十一日(封書)書簡
 東徤(文彦)宛        八月五日(封書)書簡
 東徤(文彦)宛        八月三十一日(封書)書簡
 清水文雄宛(学習院の恩師)      九月十七日(未発送)書簡
十七歳 一九四二(昭和十七)年
 王朝心理文学小史       一月三十日(擱筆)評論
 本のことなど―主に中等科の学生へ   九月二十八日(擱筆)評論
十八歳 一九四三(昭和十八)年
 東徤(文彦)宛            四月十一日(封書)書簡
十九歳 一九四四(昭和十九)年
 平岡公威自伝             二月二十八日(擱筆)評論
二十一歳 一九四六(昭和二十一)年
 木村徳三宛(当時、雑誌「人間」編集長)  五月三日(封書)書簡
二十二歳 一九四七(昭和二十二)年
 恋する男                六月十七日(東京新聞)評論
 富士正晴宛              十一月二十八日(葉書)書簡
二十三歳 一九四八(昭和二十三)年
 ジャン・コクトオへの手紙―「悲恋」について  二月十八日(キネマ旬報・四月十四日)評論
 ドルヂェル伯の舞踏会  三月三十日(世界文学・五月)評論
 そぞろあるき―作家の日記 六月十一日(芸苑・十一月)評論
二十四歳 一九四九(昭和二十四)年
 小説の技巧について   一月十七日(世界文学・三月)評論
 舟橋聖一との対話対談/舟橋聖一    三月(文学界)対談
 私のベストテン                四月(文芸往来)評論
 プチ・プロポ                  六月(世界文学)評論
 私の愛読書                  七月(表現)評論
 ダンス時代                  八月(婦人公論)評論
 極く短かい小説の効用           十二月(小説界)評論
二十六歳 一九五一(昭和二十六)年
 あとがき「聖女」        四月十五日(目黒書店)評論
 文学に於ける春のめざめ       四月(女性改造)評論
 わが文学の泉              四月(群像)評論
 「禁色」は廿代の総決算    十二月十七日(図書新聞)評論
二十七歳 一九五二(昭和二十七)年
 ラディゲ病             一月(婦人公論)評論
 私のベストテン          二月(人生手帳)評論
 ジャン・ロッシイ作 青柳瑞穂訳「不幸な出発」 九月十四日(毎日新聞・夕刊)評論
 肉体の悪魔            十二月(婦人公論)評論
 私の好きな作中人物―希臘から現代までの中に  十二月(別冊文藝春秋)評論
 僕たちの実体鼎談/大岡昇平・福田恆存  十二月(文芸)対談
二十八歳 一九五三(昭和二十八)年
 死せる若き天才ラディゲの文学と映画「肉体の悪魔」に対する私の観察   一月(スクリーン)評論
 私の理想の女性―贅沢品として    一月(婦人朝日)評論
 レイモン・ラディゲ 六月(「ラディゲ全集」中央公論社)評論
 あとがき「三島由紀夫作品集」1      七月(新潮社)評論
 ラディゲの死                   九月二十五日(擱筆)小説
 「ラディゲ全集」について  十月(「ラディゲ全集」ガイドブック・婦人公論)評論
二十九歳 一九五四(昭和二十九)年
 映画の中の思春期           九月十六日(擱筆)
 (「亀は兔におひつくか」昭和三十一年十月・村山書店)評論
 恋愛小説ベスト・スリー        十一月(群像)評論
三十歳 一九五五(昭和三十)年
 三島由紀夫さんに聞く対談/川田雄基   六月(若人)対談
 あとがき「ラディゲの死」     七月二十日(新潮社)評論
 「盗賊」ノオトについて   七月二十五日(私のノート叢書3・ひまわり社)評論
 戯曲の誘惑     九月六日~七日(東京新聞・夕刊)評論
 青春期の読書            十一月(文学界)評論
 小説家の休暇        十一月二十五日(講談社)評論
三十一歳 一九五六(昭和三十一)年 
 ラディゲに憑かれて―私の読書遍歴   二月二十日(日本読書新聞)評論
 わが魅せられたるもの          四月(新女苑)評論
 自己改造の試み―重い文体と鴎外への傾倒  八月(文学界)評論
 私の永遠の女性           八月(婦人公論)評論
 夭折の資格に生きた男―ジェームス・ディーン現象  十一月(映画の友)評論
 死んだアイドル 生きてゐるイメージ    十一月二十六日(週刊新潮)評論
三十二歳 一九五七(昭和三十二)年
 わが思春期              一月~九月(明星)評論
 無題江口清著「天の手袋」推薦文    五月(角川書店)評論
 現代小説は古典たり得るか     六月~八月(新潮)評論
三十三歳 一九五八(昭和三十三)年
 作家と結婚             七月(婦人公論)評論
三十四歳 一九五九(昭和三十四)年
 文章読本            一月(婦人公論付録)評論
 芥川留利子宛           一月十六日(葉書)書簡
 十八歳と三十四歳の肖像画   五月(文学自伝・群像)評論
三十五歳 一九六〇(昭和三十五)年
 石原慎太郎氏の諸作品  七月(新鋭文学叢書8・筑摩書房)評論
三十六歳 一九六一(昭和三十六)年
 河盛好蔵宛             四月九日(葉書)書簡
 「狂った年輪」をみて        十月(スクリーン)評論
 私はこんな本を         十月(マドモアゼル)評論
三十七歳 一九六二(昭和三十七)年
 キーン、ドナルド宛       五月二十七日(封書)書簡
三十八歳 一九六三(昭和三十八)年
 私の遍歴時代 一月十日~五月二十三日(東京新聞・夕刊)評論
 わが創作方法             十一月(文学)評論
 一冊の本ラディゲ「ドルヂェル伯の舞踏会」  十二月一日(朝日新聞)評論
三十九歳 一九六四(昭和三十九)年
 私の文学鑑定対談/舟橋聖一      十一月(群像)対談
四十歳 一九六五(昭和四十)年
 三十人への三つの質問  九月(われらの文学・内容見本・講談社)評論
 わが青春の書―ラディゲの「ドルヂェル伯の舞踏会」 十月一日(YOUNG-MAN・№2)評論
四十一歳 一九六六(昭和四十一)年
 ニーチェと現代対談/手塚富雄   二月・世界の名著46・中央公論社)対談
 二十世紀の文学対談/安部公房      二月(文芸)対談
 私はいかにして日本の作家となったか 野口武彦訳  四月十八日(日本外国特派員協会・講演)評論
 「贋の偶像」について  十二月四日(昭和四十二年二月・展望)評論
四十二歳 一九六七(昭和四十二)年
 葉隠入門             九月一日(光文社)評論
 インドの印象 十月二十日~二十一日(毎日新聞・夕刊)評論
四十三歳 一九六八(昭和四十三)年
 私の文学を語る対談/秋山駿     四月(三田文学)対談
四十五歳 一九七〇(昭和四十五)年
 解説「日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂」  六月(中央公論社)評論

レイモン・ラディゲのこと
 Raymond・Radiguet (一九〇三~一九二三)。二十歳で夭折したフランスの小説家。一九二三年、十六歳から十八歳のときに書いた小説「肉体の悪魔」が出版社の派手なキャンペーンもあって大成功を収め、ラディゲの名は一躍有名になる。しかし、すでに完成していた二作目の小説「ドルヂェル伯の舞踏会」の刊行を待つことなく、腸チフスによりこの世を去った。「早熟な天才」「神童」といった形容は確かにラディゲに相応しいが、ラディゲ像の形成においてジャン・コクトーの果たした役割は大きい。
 三島は十代でラディゲを愛読し、特に「ドルヂェル伯の舞踏会」では、堀口大学の訳文に魅かれた。
 「肉体の悪魔」
  自伝的形式の一人称小説で、第一次大戦下のパリ郊外の土地を舞台に、早熟な少年と、夫を戦場に送り出した若い人妻の破局的な愛を語る。
 「ドルヂェル伯の舞踏会」
  人妻との恋愛をテーマとする本作は、ラファイエット夫人作の「クレーヴの奥方」を下敷きにしながら、舞台を第一次大戦後の上流社会に置いた三人称小説である。目立つ出来事は起こらず、語り手が超越的な視点から登場人物たちに行う心理分析が物語を形成している。

ジャン・コクトーのこと
 Jean・Cocteau(一八八九~一九六三)。フランスの文学者。ブルジョワの家に育ち、幼少期からパリの社交界に出入りした。詩・小説・演劇・映画・批評など幅広い分野で活躍し、軽業師とも形容された。
 三島のコクトーへの注目も十七歳ころからと早い。ラディゲへの熱烈な愛好とともに、密かにコクトーに耽溺した時期があり、自分自身を重ね合わせていたこともある。
 三島は、一九六〇(昭和三十五)年十二月にはパリで舞台稽古中のコクトーを訪ねて会談している。

「ラディゲ」を含んだ著述から抜粋
二十三歳 一九四八(昭和二十三)年
 「ドルヂェル伯の舞踏会」(評論)三月三十日 〔初出:「世界文学」五月号〕
  「ラディゲは鏡の中へ入つてしまつたのだ」と僕は痛みをこらへて独り言した。しかし僕はその中へは入れなかつた。  は原文では’’’で表記。以下の文中(ルビ)、()などは原文のまま〕

二十七歳 一九五二(昭和二十七)年
 「ラディゲ病」(評論) 〔初出:「婦人朝日」一月号〕
  少年時代の感受性をおしゆるがした書物は、終生忘れがたいものになるであらうが、レイモン・ラディゲの「ドルヂェル伯の舞踏会」(堀口大学訳)ほど、強い影響を受けた本はありません。(略)
  ラディゲの窓からヨーロッパ文学の城館の内部へ入つて行つた(略)。 
 このラディゲ病は、森鷗外の作品に親しむにいたつて、やうやく快方にむかひつつあるやうであります。
 「肉体の悪魔」(評論) 〔初出:「婦人公論」十二月号〕
  実に出来のいい映画で、九十点をあげてもいいが、但し原作とは全く別物である。しかし巧妙な盗作と云はうか、美名に隠れた換骨奪胎と云はうか、これだけの原作冒瀆(ぼうとく)が出来れば、これも見事な一種の芸術的犯罪である。(略)
  あの決して泣かない冷酷な少年、スパルタ流の精神的克己を作品制作に当つて持したラディゲの原作とは、想像もつかない。
 「私の好きな作中人物―希臘(ギリシヤ)から現代までの中に」(評論)〔初出:「別冊文藝春秋」十二月〕
  二十世紀の小説では、ラディゲの「ドルヂェル伯の舞踏会」のマオは、惚れるほどではないが、好きである。マオは半ば僕の永遠の女性だが、永遠の女性に惚れつづけてゐては体がもたないからである。

二十八歳 一九五三(昭和二十八)年
 「死せる若き天才ラディゲの文学と映画『肉体の悪魔』に対する私の観察」(評論) 〔初出:「スクリーン」一月号〕
  小説「肉体の悪魔」は、中学時代の僕の座右の書であつた。改造文庫から出てゐた伏字の多い本で、伏字をいろいろ想像して、ますます作品を神秘化して崇拝してゐたが、その伏字の中に、エロティックな部分と反戦的な部分がなひまぜになつているのがわからない。
 「レイモン・ラディゲ」(評論)〔初出:「ラディゲ全集」六月・中央公論社〕
  ランボオは天才であつた。それはよろしい。が、ラディゲの天才はそれと同じ意味ではなかつた。ラディゲのは逆説的な天才であつた。つまり「平凡さ」の天才、散文の天才、小説の天才(!)だった。(略)
  天子の目に映つた地上が、ラディゲの小説のやうに、透明で明晰で美しいといふことは、満更空想できないことではない。そこでラディゲは地上へ好んで大いそぎで落下したのであつた。
 「『ラディゲ全集』について」(評論)〔初出:「ラディゲ全集」ガイドブック「婦人公論」十月号〕
  私は生来、小説の作中人物に惚(ほ)れたことはないが、作者ラディゲその人には、少年時代の凡(すべ)てを賭けて惚れたのであつた。こんなに颯爽たる若者はオリンピックの選手にもざらにはゐない。(略)
  ラディゲと同年配だつたころ、私は一途(いちづ)に彼の作品の古典的完成に魅かれてゐたが、古典的完成への志向はラディゲの媒(なかだ)ちによつて、さらにラシイヌへ希臘(ギリシヤ)古劇へ向つて行つた。(略)
  大体二十やそこらで死ぬ権利はどこの国の小説家にもないのであるが、神がラディゲに強ひたこの権利の濫用は、今ではすでに、アドニーズ、ヒュアキントスの夭折とひとしく、青春そのものの神秘の伝説となつた観がある。

三十一歳 一九五六(昭和三十一)年
 「ラディゲに憑(つ)かれて―私の読書遍歴」(評論)〔初出:「日本読書新聞」二月二十日〕
 そのうち、ちらほら翻訳物なども読むやうになつたが、中学三、四年のころ、ラディゲを読んでショックを受けた。しかしそのとき「ドルヂェル伯の舞踏会」が完全にわかつたかといふと、どうもあやしい。何だかわからないが、美しい馬を見て美しいと感じるやうに、作品のいはうやうない透明な美しさははつきり見てゐた。

三十六歳 一九六一(昭和三十六)年
 「『狂った年輪』をみて」(評論) 〔初出:「スクリーン」十月号〕
  レイモン・ラディゲはわが十代の文学少年時代の偶像であり神であつた。このごろの少年にとつてジェームス・ディーンがさうであるやうに、少年を魅し去るのは夭折の星である。のうのうと生きて、みにくい中年や老年の姿をとるにいたる人間は、決して少年の神とはなりえない。

三十八歳 一九六三(昭和三十八)年
 「一冊の本ラディゲ『ドルヂェル伯の舞踏会』」(評論)〔初出:「朝日新聞」十二月一日〕
  白水社のこの本を、一体何度読み返したかわからないが、十五歳ぐらゐで初読のときは、むつかしいところなど意味もわからずに魅せられ、くりかえして読むうちに、朝霧のなかから徐々に村の家々や教会の尖塔(せんたふ)がくつきりと現はれてくるやうに、この小説の作意も明瞭になつた。(略)
  私も何とか二十歳前にこんな傑作を書き、二十歳で死んだら、どんなにステキだらうと思つてゐた。(略)
  私はラディゲの作品そのものの呪縛からのがれたのちも、つひに、ラディゲが目ざしてゐた人間と生の極北への嗜好(しかう)からは、のがれることができなかつたのである。

四十歳 一九六五(昭和四十)年
 「わが青春の書―ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』」(評論)〈展示原稿〉〔初出:「YOUNG-MAN・№2」十月一日〕
  私の憧れの対象は、第一次大戦後のフランスの天才作家で、すばらしい傑作「ドルヂェル伯の舞踏会」を書いて、二十代でチブスで死んでしまつた人である。私はこの夭折の天才とその作品に憧れて、憧れて、どうしても彼と自分を同一化しようとしてゐた。(略)
  この同一化には、三つの条件がある。一つは、二十歳までに「ドルヂェル」に匹敵する傑作を書くこと。第二は、まちがひなく二十歳で死んでしまふこと。第三は、顔までラディゲに似ることである。(略)
  この古典的な三角関係の恋愛心理小説は、幾何学の定理のやうにスッキリしてをり、水晶のやうに透明で優雅、あらゆる「良い趣味」の極致、あらゆる小説のうちで最高の純粋性を獲得した作品、‥‥とにかく、文学の最高の規範のやうに私には思はれた。

レイモン・ラディゲへの憧れから生まれた三島の小説作品
 「盗賊」(小説) 一九四八(昭和二十三)年十一月二十日(真光社)
  昭和十年ごろの平和な華族の世界を通じて書かれた、恋愛心理小説である。
  三島は、長編の処女作でもある「盗賊」によって、「ラディゲの向うを張りたいと思つてゐた」(新潮社版『三島由紀夫作品集』第一巻あとがき)と言っている。
 「ラディゲの死」(小説) 一九五三(昭和二十八)年九月二十五日(擱筆)
  一九二四年、三十五歳のジャン・コクトオは、前年十二月十二日、二十歳のレイモン・ラディゲを亡くした。それからというもの、彼の心は不断の危機にあった。
  コクトオの中の「ラディゲの死」を描く中に、三島自身の「ラディゲの死」を描いた、三島のラディゲ克服の物語である。

  ラディゲは、生涯にわたって三島の心の中に棲み続けたようである。


全国文学館協議会  紀要九号(二〇一六年三月三十一日)寄稿
※「紀要」は縦書きですが、都合により横書きにしてあります。


小さな文学館の大きな喜び(近況報告)

 当館は年1つの企画で運営しています。昨年の2月28日から3月22日までの8回目の企画展は「三島、憧れの作家レイモン・ラディゲを語る」でした。
 定期開館期間を過ぎましても、ちらほらと予約来館があり、8月末には北海道のツアー会社の「文学歴史の旅」の皆さんが大型観光バスで、9月末には川崎の文学グループの皆さんが開通したばかりの北陸新幹線に乗って来館されました。
 このように遠来のお客さんもお迎えできたことは大きな喜びでした。
 そして秋。「私が愛する日本人へ~ドナルド・キーン 文豪との70年~」というNHKのテレビ番組を見ました。
 キーン氏は、戦後に京都で暮らし、日本と日本文学の研究を深めるなかで、それまで以上に日本への関心が深まったと言います。そして、「日本文学には世界的価値があることを証明する」ことが、氏の生涯の仕事となりました。
 谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、安部公房などと深い親交があり、古典から現代文学まで研究対象は幅広く、日本文学を世界に紹介されました。
 こういう番組を見た直後、当館に「近代文学史としての日本文学館ガイド」という冊子がドイツから届きました。ボン大学日本学科で教鞭を執るハラルド・マイヤー氏が出版したものです。日本の文豪を対象作家とする日本国内の35の文学館をドイツの学生に紹介するために刊行したものです。当館についても数頁に亘る記述があり、巻末には外観と展示室の写真もありました。
 早速、知人を介してドイツ語の分かる人に翻訳して貰いました。内容は驚くほど詳細な記述でした。館名の由来、設立の趣旨から、三島の生涯、作品の特徴に至るまで明瞭、簡潔にまとめられていました。過去の企画展も詳しく紹介していました。日本文学に魅力を感じたマイヤー氏の熱気が伝わってきました。
 これほど日本文学を世界に紹介するために尽力されている人々がおられることに改めて感謝しました。同時に、世界的な作家を対象作家とさせて貰っていることを誇らしく思うとともに、その責任の大きさも実感しました。
 12月に入ってもう一つ。母校の大学に、校友会寄付講座という制度があり、校友会からの要請で1時間半の授業を担当させて貰いました。演題は「三島文学に魅かれて」としました。70人ぐらいの学生が受講してくれ、最前列の学生らが目を輝かせながら頷いて聞いてくれたのがうれしかったです。
 このように、昨年は特別なことの多い年でした。
  さて、今年3月の企画展は、「三島、決断の時―『盗賊』から『仮面の告白』へ―」です。目下、展示作業は最終段階に入っています。




(2016年1月)
(隠し文学館 花ざかりの森 館長)

全国文学館協議会会報 第64号(2016年1月31日発行) 寄稿