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『橋づくし』の成立をめぐって

小説『橋づくし』の概要
〈初出〉「文藝春秋」文藝春秋社・昭和三十一年(一九五六)十二月
〈所収〉短編集『橋づくし』文藝春秋社・昭和三十三年(一九五八)一月、新潮文庫『花ざかりの森・憂国』昭和四十三年(一九六八)九月 ほか

 銀座の置屋分桂家(わけかつらや)の芸妓小弓(四十二歳)と、かな子(二十二歳)、及び料亭米井の箱入り娘で早大芸術科の学生である満佐子(二十二歳)の三人は、陰暦八月十五日の深夜、願かけの「橋づくし」をする。道中何があっても無言を通し、同じ道を通らずかに七つの橋を渡りきれば願いごとが叶うとされた習俗である。三人は米井で落ち合って出発するが、満佐子の母親のさしがねで田舎者の女中みなが加わることになり、一行は四人となる。小弓の先導で一ぺんに二つ分渡れる三叉の橋の三吉橋から始めるが、第三の築地橋を渡り第四の入船橋を目前にして、かな子が急な腹痛に見舞われて脱落する。次に第五の暁橋を渡ったところで旧知に声をかけられてしまい小弓が失格となる。残る二人は、第六の堺橋を駆けるようにして渡るが、最後、第七の備前橋のたもとで満佐子が警官から不審尋問を受ける。身投げかと疑われたのだが、みなに答えさせようと合図をするが気のきかぬ彼女はその意を察知せず、自分だけさっと渡ってしまう。結局願かけが成就したのは元来付き添い役であったはずの女中みなだけという皮肉な結果となった。

小説「橋づくし」の成立とその反響
昭和三十一年(一九五六)
十月三十日(火) 「金閣寺」新潮社刊。
十一月十日(土) 「橋づくし」を《文藝春秋》十二月号に発表。
昭和三十二年(一九五七)
一月二十二日(火) 第八回読売文学賞の授賞作品を決定する委員会開催。「金閣寺」が小説部門での授賞決定。
昭和三十三年(一九五八)
一月三十一日(金) 短編集「橋づくし」文藝春秋新社刊。
九月七日(日) KRテレビで東芝日曜劇場「橋づくし」(午後九時十五分~十時十五分)放映。脚色・野上敏夫、辻久一、演出・辻久一、岡本愛彦、出演・香川京子、渡辺美佐子、山田五十鈴ほか。
十月二十六日(日) 舞踊「橋づくし」を柳橋みどり会が明治座で初演。作曲・清元梅吉、作舞・西川鯉三郎、出演・さよ子、福寿、つま子、せつ子ほか。三十一日まで。
昭和三十四年(一九五九)
  四月二十八日(火) 舞踊「橋づくし」を西川会が名古屋の愛知文化講堂で上演。作曲・清元梅吉、作舞・西川鯉三郎、出演・西川左近、西川芳美、西川茂三ほか。三十日まで。
九月二十日(日)  「鏡子の家」(第一部、第二部)新潮社刊。
昭和三十六年(一九六一)
七月二日(日) 劇化した「橋づくし」を新派が歌舞伎座で初演。脚色、演出・榎本滋民、出演・阿部洋子、英(はなぶさ)太郎、霧立のぼる ほか。二十六日まで。
昭和四十年(一九六五)
七月五日(日) 三島由紀夫短篇全集五・講談社刊。(「橋づくし」所収)
昭和四十三年(一九六八)
九月十五日(日) 自選短編集「花ざかりの森・憂国」新潮文庫刊。(「橋づくし」所収)
昭和四十五年(一九七〇)
十一月二十五日(水) 自衛隊に決起を促したが、果たさず自決した。
昭和四十六年(一九七一)
一月七日(木) 限定版「橋づくし」牧羊社刊。「雪の巻」「月の巻」「花の巻」各巻限定一二〇部。

小説『橋づくし』をめぐる三島の証言
 『橋づくし』は、『金閣寺』を書き上げ、戦後という時代を相対的に問いつめようとした次の野心的長編小説『鏡子の家』にとりかかるまでの、いわば豪華で洒落た幕間劇といった趣の作品と言われている。
 その『橋づくしに』について三島が語った思いを著述、書簡などから辿る。

昭和三十三年(一九五八)二月三日(月) キーン・ドナルド 宛(封書)
 別便の飛行機便で、小生の短篇集「橋づくし」をお送りしました。日本は何と本の売れる国でせう。これが出て一週間で、もう三万売れました。さてNew Directions Annualのための短篇をこの中から選んでいただきたいのですが、「橋づくし」か「女方」がいいと思ひます。(略)
       二月三日            三島由紀夫
    ドナルド・キーン雅兄

昭和三十三年(一九五八)十月二十四日(金)
 「裸体と衣装―日記」
 十一時、明治座へゆき、柳橋みどり会のために書いた舞踊台本「橋づくし」の舞台稽古に立ちあふ。振付は西川鯉三郎氏、装置は伊藤熹朔(きさく)氏である。その装置の橋詰の一つのビルの屋上から、ぬうつと大道具係の男の上半身が抜きん出て、街灯の明りを直したりするのが面白い。いづれにしろ、舞台稽古といふものは、胸に半分食物がつかへたやうな妙な気持のものだ。深夜一時半帰宅。(略)

昭和三十三年(一九五八)十月二十六日(日)〈初出〉柳橋みどり会プログラム
 「月に祈る」
 「橋づくし」を劇化してくれといふ話なら私は辞退したらうが、舞踊台本にしてくれといふ話だから乗つたのである。何故かといふと、この小説の中心をなす「七つの橋渡り」の場面は、全部無言で行はれるといふことが条件になつてゐるので、セリフのない舞踊で表現されるのに適してゐる。私は小説と舞踊といふ、一見何ら関連のなささうに見える二つのジャンルが、内心独白といふ点では、案外近くにゐることに気がついた。ひよつとすると小説と舞踊は、小説と芝居よりも、身近な親戚かもしれないのである。(略)
〈初刊〉三島由紀夫全集二十八・新潮社・昭和五十年(一九七五)八月

昭和三十四年(一九五九)四月二十八日(火)〈初出〉西川会プログラム
 「『橋づくし』について」
 「橋づくし」の原作は、短編小説であるが、どう考へても、戯曲化は不可能である。といふのは、主要人物が七つの橋を渡るあひだ、一切会話が禁じられてゐるので、セリフを使用することができないのである。そこに小説独特の心理描写が活用されるわけであるが、舞踊劇もこの点では小説に似てゐて、セリフを使はずに心理表現が可能であるから、これを舞踊化しようと企てた西川氏の着眼は正鵠(せいこく)を射てゐたと思はれる。そして私もはじめて気がついたのだが、戯曲と舞踊よりも、小説と舞踊のはうが、見かけの隔たりにもかかはらず、却(かへ)つて親近性の濃いジャンルであるのかもしれないのである。(略)
〈初刊〉三島由紀夫全集二十九・新潮社・昭和五十年(一九七五)九月

昭和三十六年(一九六一)七月二日(日)〈初出〉新派プログラム
 「『橋づくし』について」
 小説「橋づくし」は私のほとんど唯一の花柳界小説であるが、もとより私共の年代は永井荷風の年代とはちがつており、何らアイロニーなしに花柳界を扱ふことはむづかしい。荷風でさへ「腕くらべ」は、明らかに冷笑的風刺的作品である。
 「橋づくし」のエピグラフとして、近松の「心中天網島」の道行(みちゆき)の文句を借りたのは、このアイロニーを活かすためであつた。
    「……元はと問へば分別の
     あのいたいけな貝殻に一杯もなき蜆橋(しじみばし)、
     短き物はわれわれが此の世の住居(すまひ)秋の日よ」
       ―「天の網島」名ごりの橋づくし―
 近松の詩句はこのやうに美しい。しかしわれわれの生きてゐるのは、コンクリートの橋と自動車の時代である。もともと近松の名残の橋づくしのパロディーを作るつもりで、築地近辺の多くの橋を踏査に行つた私だが、予想以上にそれらの橋が、没趣味、無味乾燥、醜悪でさへあるのにおどろいた。(略)
〈初刊〉三島由紀夫全集三十・新潮社・昭和五十年(一九七五)十月
【解説】
 「心中天網島」は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃である。享保五年(一七二〇)十二月六日、大坂竹本座で初演された。全三段の世話物。同年に起きた、紙屋治兵衛と遊女小春の心中事件を脚色している。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。
 「……元はと問へば分別の―」は、名文として知られる、道行「名ごりの橋づくし」の中でも有名な台詞である。
 二人は、蜆川の梅田橋から、緑橋、桜橋、蜆橋、大江橋、難波小橋、舟入橋、堀川橋、天神橋、天満橋、京橋、御成橋と渡って、心中の場である網島の大長寺に向かう。

昭和三十八年(一九六三)一月三日(木) キーン・ドナルド 宛(封書)
 ボブ・マックグレガー氏から、「橋づくし」の貴兄の再訳をfirst‐rate jobとほめて来られました。お忙しいところを本当にありがたうございました。(略)
      正月三日             三島由紀亭
    鬼韻先生玉案下

昭和三十八年(一九六三)五月十五日(水) キーン・ドナルド 宛(封書)
 英国のHarpers Bazaarに「橋づくし」がいよ〳〵載るさうで、うれしく思ひます。多少のカットはやむをえません。同じ雑誌からこの間写真をとりに来ましたが、出来たのを見たら、イギリス式紳士みたいにとれてゐました。僕はギャングみたいに見える写真のはうがうれしいのですが。 (略)
      五月十五日             雪翁拝
    奇因先生

昭和四十年(一九六五)七月五日(日) 〈初出〉三島由紀夫短篇全集五・講談社
 「あとがき」
 「橋づくし」(昭和三十一年)は、私がかねがね短篇小説といふものに描いてきた芸術上の理想を、なるたけ忠実になぞるやうに書いた作品で、冷淡でオチがあつて、そして細部に凝つてゐて、決して感動しないことを身上にしてゐる。(略)
〈初刊〉三島由紀夫全集三十二・新潮社・昭和五十年(一九七五)十二月

昭和四十三年(一九六八)九月十五日(日)〈初出〉新潮文庫『花ざかりの森・憂国』解説
 「『花ざかりの森・憂国』解説」
 「橋づくし」は、もつとも技巧的に上達し、何となく面白をかしい客観性を、冷淡で高雅な客観性を、文体の中にとり入れたものだと思つている。(略)
〈初刊〉「蘭陵王」・新潮社・昭和四十六年(一九七一)五月

【題材の探究】
「橋づくし」の願かけと浅野川の「七つの橋めぐり」との類似性
 三島が理想の短篇小説と自負する「橋づくし」は、近松門左衛門の「心中天網島」の「名ごりの橋づくし」に想を得た。三島は、心中の「道行」から、築地川の「願かけ」の橋めぐりという新たな習俗を創作した。
 三島が「橋づくし」の題材をどのように得たかということが、三島研究の課題の一つともなっている。その究明の中で浮上してきたのが、金沢の浅野川に伝わる「七つの橋めぐり」である。
 浅野川の橋めぐりを伝える冊子は多い。例えば、「北陸の河川」の「浅野川」の項では次のように紹介している。
「浅野川」北陸電力 地域総合研究所・平成八年 (一九九六)三月二十五日
〈所収〉「北陸の河川」(橋本雅文堂)
 [橋めぐり]浅野川の天神橋から中島大橋の間には、浅野川大橋・中の橋・梅の橋・など7つの橋がある。春と秋のお彼岸の夜に、同じ橋を二度渡らないですべてを巡ると、無病息災で過ごせるという風習がある。知り合いにあっても口をきかない無言の行で、巡り終えた後、下着を洗い、タンスの奥にしまっておく。今でも多くの女性が実践している。
他の冊子においても、概ね同様の紹介をしている。

「七つ橋めぐりの伝え話を身近に感じて」石野琇一・平成十一年 (一九九九)二月吉日
〈所収〉「老舗の街・尾張町シリーズ二十四『尾張町を支えた女たち その拾参』」(尾張町商店街振興組合)
「七つ橋渡り―願い成就へ深夜の儀式―」
北國新聞社編集局・平成十八年 (二〇〇六)三月二十日
〈所収〉「おとこ川 おんな川」(時鐘舎)
「七つ橋渡り」「続・七つ橋」砺波和年・平成二十五年 (二〇一三)五月二十日
〈所収〉「百年のあとさき―『米澤弘安日記』の金沢」(北國新聞社)

 「橋づくし」の願かけと浅野川の「七つの橋めぐり」とは、確かに類似しているのだが、研究者の意見は分かれている。
 ダニエル・ストラック氏は「三島は赤坂の料亭で北陸地方の『橋めぐり』について伝聞し、興味を持つに至って作品を書いたと推定できる」としている。これは、岩下尚史氏の「ヒタメン」の記述からの推定である。
 「ヒタメン」は、若き三島と親交のあった、赤坂の料亭が生家であるS嬢の回顧談で構成されている。 
 S嬢は語る。
「この願掛のことを聞かせてくれた女中と云うのは、河内屋の伯父(註・二代目實川延若)の紹介で、終戦直後に大阪からきたひとで、何んでも宋右衛門町の〞富田屋(とんだや)〟(註・名妓八千代を抱えた名代の茶屋)の身内だと云う触れ込みでした。」
 この女中が、北陸の金沢にゆかりがあったかどうかは不明である。
 別に、三島の母・倭文重(しずえ)が加賀藩の儒学者の家系であったことから、三島が母から聞いたかもしれない「七つの橋渡り」の風習をヒントにしたのではないかとも言われている。
 しかし、三島の母は東京の小石川で生まれで、祖先が加賀藩にゆかりがあっても、金沢の「七つの橋めぐり」の習俗について知る機会があったかどうかは不明である。
 これらに対して、大木志門氏は「橋を用いた願かけの風習自体は全国各地で採取されており、それが最も色濃く残るのが現在の金沢の『七つ橋渡り』と考えておくのが妥当なのであろう」としている。

「三島の『橋づくし』―反近代の近代的表現として―」
ダニエル・ストラック・平成十五年 (二〇〇三)十一月十一日
〈所収〉「近代文学論集 第二十九号」(日本近代文学研究会九州支部)
「ヒタメン―三島由紀夫が女と逢う時…」
岩下尚史・平成二十三年 (二〇一一)十二月十日(雄山閣)
「二つの『ドリル・ストーリー』―三島由紀夫『橋づくし』と村上春樹『バースディ・ガール』―」大木志門・平成二十七年 (二〇一五)三月二十日
〈所収〉「三島由紀夫研究⑮『三島由紀夫・短篇小説』」(鼎書房)

 「橋づくし」の題材を三島がどのように得たかは、今後も研究課題の一つとされていくようである。しかし、「橋づくし」は三島の短編の中でも評価の高い作品として、これからも注目されていくであろう。



(館長 杉田 欣次)隠し文学館花ざかりの森


小さな文学館の大きな喜び6(近況報告)

 例年、6月の全文協の総会時に議事のあと各館からの挨拶の時間があります。つい長くなりがちなので、各館3分ぐらいと言われています。年間スケジュールは事前に提出されて一覧表にして総会で配布されていますので、それ以外の話題をということになっています。しかし、企画の悩みなどを語ろうとしますと、どうしても企画展のスケジュールと絡むことになります。
 当館は毎年3月のみの定期開館で、年1つの企画です。同年11月末までは同じ展示のまま予約来館で運営しています。今年は「『橋づくし』の成立をめぐって」がテーマでした。来年の予定は、(仮題)「三島由紀夫と北杜夫」としていました。
 個人で運営している文学館であり、生資料にも限りがあります。たまたま入手した直筆原稿を軸に企画を練ることになります。来春展示しようと思っていたのは、「北杜夫の結婚」という、「婦人画報」初出となった自筆原稿です。
 例年4月になると直ぐに翌年3月の企画を詰める作業に取り掛かります。6月の総会の時点では、三島由紀夫と北杜夫との出会いからの交流を時系列で整理出来ていました。ところが、その二人の交流の経過を解説する展示だけでは、どうしても魅力のある展示にはならないように思えていました。それで、三島が同世代作家らに贈った、推薦文、序文、跋などを、収蔵している三島関係資料の中から抜き出してみると30点余になりました。たまたま買っていた本でしたが、こんなに沢山有るとは思いませんでした。そこで、これらも同時に展示すると、少しは魅力のある展示になるかなと思えていました。
 全文協の挨拶ではこのままの気持ちを伝えさせて貰いました。すると、いつも気に掛けて頂いている山崎一頴会長の一言で勇気が湧いてきました。「それは面白い」というような言葉だったと思いますが、この言葉で一気に企画を後押しして頂いたような気持ちになりました。本当に有り難かったです。
 目下は、「三島、同世代作家らへのメッセージ」というテーマで、企画の内容の細部を確認しています。30点余の推薦文を展示するために、いろいろ工夫しなければなりませんが、残念なことが出て来ました。それは、2013年以来、毎回続けてきた全国文学館協議会・統一テーマ「3・11 文学館からのメッセージ」のスペースを割愛せざるを得なくなったことです。当館テーマは「『美しい星』と人類救済の試み」でした。三島の新たな側面を興味を以て見て頂いていました。また、機会があれば調整して実施したいと思っています。
 ともあれ、来年も見易くて分かり易い展示に努めたいと思っています。



(2018年12月)
(隠し文学館 花ざかりの森 館長)

全国文学館協議会会報 第73号(2019年1月31日発行) 寄稿