展示品>館長室たより 2011年


被災お見舞い(近況報告)

 遅ればせながら、東日本大震災で被害を受けられた文学館、並びに被災された文学館職員の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。東北地方にも、伝統のある文学館がいくつもあります。6月の総会でも各館から被害状況を報告されていました。施設、資料の復旧に向けて日々尽力されている職員の皆様のご労苦に敬意を表します。
 3月11日の午後。丁度、当館は定期開館中で、一組の来館者を送り出した時でした。木造の建物が微かに軋み、椅子が奇妙な揺れ方をしました。地震かなと思っていると、展示室からガラスが小刻みに鳴る音が聞こえました。ガラスは暫く鳴り続けて止みました。文学館は無音にしていますが、入館者がいなかったのを幸い、備え付けのラジオのスイッチを入れました。震源地は宮城県沖だと言うことでした。日本列島のほとんどすべての沿岸に一斉に津波注意報・警報が出され、当館の北側7kmほどの富山湾の沿岸にも注意報が出されていました。玄関のチャイムが鳴り、すぐにラジオのスイッチは切りました。
 時間になって閉館してから、家のテレビを見て驚きました。津波によって陸地と海の境がなくなっていました。家、大小の船、車が、沿岸の街の鉄筋の建物のあいだを押し流されていきます。ゆっくりと流されているのが返って恐ろしく思いました。寸前までの平和な風景が、刻々と一変していきました。日常のすべてを呑み込んだ黒い波は、まるで獲物を探しながら進む狡猾な獣のようでした。
 この日以降、富山県内の方はいらっしゃいましたが、予め連絡を頂いていた東京の方をはじめ、関東方面の方のご来館はありませんでした。開館以来、初めてのことでした。
 三島由紀夫に「世界の静かな中心であれ」という随筆があります。昭和34年1月1日の読売新聞に載ったものです。三島はその中で、「日本もつひに、野球選手と映画スタアと流行歌手の国になつてしまつたか」「そういふ不必要なものが生活の大きな部分を占めるだけ余裕のできたことを喜ぶべきだ」。そう言いながらも、「もつと必要なもの、安定した職や住宅やよい道路などのために大さわぎをしないのが、いかにもアンバランスで、今年こそは必要と不必要の双方を踏まえたバランスがほしい」と続け、次のように結んでいます。「古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものにしてゐた。われわれは厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持つてゐることを、感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ」。この原稿が書かれた当時と、世界情勢は大きく異なっていますが、三島の批評精神の先見性を感じます。
 文学館はじめ、様々な文化活動自体は、目の前の惨状には何の役にも立たないかもしれません。しかしいつの日か、世の中が平静を取り戻し、東北をはじめ全国の文学館がこれまでのような活気を取り戻し、人々に安らぎと憧れと希望を生み出してくれる日が必ず訪れることを信じています。

(隠し文学館 花ざかりの森 館長)

全国文学館協議会会報 第51号(2011年9月22日発行) 寄稿


「潮騒」の成立をめぐって

 書き下ろし長編小説「潮騒」に関して、三島は機会あるごとに様々な思いを書き残している。

「潮騒」に関する随筆など
「『潮騒』ロケ随行記」雑誌「中央公論」(中央公論社)一九五四年(昭和二十九年)十一月号掲載
 三島はこの年の八月九日から十一日まで、「潮騒」映画化のため、東宝ロケ一行と共に神島へ行っている。初めての自作映画化のロケ随行であった。

(抜粋)
 小説では、どんなに劇しい行為を描いても、作者には行為の意味だけがわかつてゐて、行為の体験といふものはないのであるが、映画俳優は、目の前でその行為を演じてみせるのである。すると作者は、行為の意味はどこかへ行つてしまつて、行為だけが動いてゆくような不安を与へられる。事実はその行為とて、演技にすぎず、実人生上の行為ではないのであるが、その行為が作者にとつて他人の肉体を通じて実現されるのを見ると、行為ははつきりとした独自の輪郭をもち、しかもそれが他人の精神といふ不安なものに、委ねられてゐるのが怖ろしくなるのである。しかしこれはおそらく、小説家といふやうな個人芸術家が、集団芸術に触れるときの共通の不安であらう。

 雑誌のグラビアにも随筆を寄せている。
「『潮騒』のこと」雑誌「中央公論」(中央公論社)一九五六年(昭和三十一年)九月号掲載
 随筆では、「潮騒」は「タフ二スとクロエ」を藍本としたこと、また取材で神島へ行ったことから「船の挨拶」というモノドラマを書いたことなどを語り、島の美しさを讃えている。
 さらに、九年後、もう一度「潮騒」について語っている。

「『潮騒』執筆のころ」雑誌「潮」(潮出版社)一九六五年(昭和四十年)七月号掲載

(抜粋)
 一九五二年のギリシアの旅で、ギリシア熱が最高に達した私が、ギリシアの小説「ダフニスとクロエ」を底本にした小説の執筆を考え、原作の主人公の牧人を漁夫にかへ、年増女の件りや海賊の件りをカットしたほか、ほとんど原作どほりのプロットを作つたのも、小泉八雲の、「日本人は東洋のギリシア人だ」といふ言葉どほり、日本の素朴な村落共同体の生活感覚や、とりわけ宗教感覚と、古代ギリシアのそれとの類縁を、ひしひしと感じたからである。だから「潮騒」にあらはれる日本の神々には、ギリシアの神々のイメージが、二重写しになつてゐると云つてよい。

 これらの発言から、三島のギリシアへの思いをたどってみる。
 三島由紀夫はかねてから小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と彼の母国であるギリシアに深い関心を持っていた。その思いは、川端康成への手紙の中に度々綴られている。

「川端康成・三島由紀夫 往復書簡」(新潮社・一九九七年刊)

(抜粋)
  昭和二十年七月十八日付け
 仕事は大学相手の寮内の図書室の掛りで、物を書く仕事にも存分に恵まれ、感謝しつゝその日を送ってをります。書棚には、近松、南北、鏡花、八雲や、ゴダール・ネルヴアル等を並べ、来ぬ夏を待ち兼ねてゐる日々が過ぎます。
  昭和二十一年一月十四日付け
 近頃よむ本がないので閉口してをりますが、小泉八雲などはどんな時代になつても面白うございます。
  昭和二十年七月十八日付け
 日本人はこれほど美しい自然と陽光に恵まれ乍ら、ハアンのあの「東洋のギリシヤ人」といふ賛辞にも背いて、夜の方へと顔を向けてまゐりました。

 三島が川端宛てに書いた手紙の中で、「ハアンの『(日本人は)東洋のギリシヤ人』といふ賛辞」は、ギリシア生まれである小泉八雲の次のような文章が三島の心に深く刻まれたものと思われる。(()は筆者)

 小泉八雲「日本の面影」(池田雅之訳・角川文庫・二〇〇〇年刊)の内「杵築―日本最古の神社」の末尾近くより

(抜粋)
 自然や人生を楽しく謳歌するという点でいえば、日本人の魂は、不思議と古代ギリシャ人の精神によく似ていると思う。

 また、三島は一九五二年にギリシアに旅行する以前に、自ら「潮騒」の藍本と述べている古代ギリシアを舞台にした小説「ダフニスとクロエー」を丹念に読み、ギリシア国内を旅行中に、小説「潮騒」の構想を練ったと思われる。
 「ダフニスとクロエー」(ロンゴス作・呉茂一訳・養徳社・一九四八年刊)

ギリシア旅行
 一九五二年(昭和二十七年)四月から翌月にかけロンドン、ギリシア、イタリア旅行の後、帰国。
 七月、紀行「希臘・羅馬紀行」雑誌「芸術新潮」(新潮社)一九五二年(昭和二十七年)七月・三巻七号掲載
アテネ及びデルフィ

「デルフィ」の項より(抜粋)
 泉のかたはらには十字を戴いた小祠がある。それは丁度小鳥の巣箱のやうな形をしてゐて、沿道のいたるところにある。黒衣に黒い布を頭に巻いた水はこびの女が、大きな罐に入れた水を、驢馬の背にのせてこれを引いてゆく。驢馬の首の鈴がのどかに鳴る。
 そこへ羊飼の少年がかへつて来る。赤いジャケツの肩に幅のひろい粗布をかけ、古来の? 形をした羊飼の携へたさまは、ダフニスの物語を思はせる。(?は原文のまま)

 そして翌年、「潮騒」の執筆準備に取り掛かる。
  一九五三年(昭和二十八年)二十八歳
  三月、浅春、長編「潮騒」取材で三重県神島を訪れる。八月、再度神島を訪れる。九月、長編「潮騒」起稿
  一九五四年(昭和二十九年)二十九歳
  四月、長編「潮騒」脱稿。六月一〇日長編『潮騒』(新潮社)
  十二月、「潮騒」により第一回新潮社文学賞を受賞。

 「潮騒」は三島の作品群の中では特異な存在である。富山県出身の文芸評論家佐伯彰一氏は次のように述べている。
「潮騒」の三島作品の中での特異性
「『潮騒』について」佐伯彰一「潮騒」(新潮文庫・昭和三十年刊・平成十七年改版)解説より

(抜粋)
 たしかに、『潮騒』は、一風変わった小説である。三島の全作品のなかでも特異な位置をしめるものであり、ひろく現代小説を見廻しても、その同類が容易には見つからない。ただひとり、ぽつんと孤立せざるを得ないあんばいである。
 しかもこの『潮騒』は見られる通り、いささかも難解な小説ではない。いかにも読みやすく、素直すぎるほど素直な青春の恋物語である。
 この時、三島は二十九歳であった。すでに青年とはいいにくい年齢であるが、まさに三十代に踏み込もうとして、青春をふり返りながら、共感と距離の意識をこめて青春の賛歌を書きのこすにふさわしい時期といえるだろう。
 (中略)
 『ダフニスとクロエ』という下敷きを一応ぬきにしても、十分独立して読むにたえる現代小説たり得ている。
 古い原型にのっとり、その源泉からくみ上げようという三島の態度、方法は、実は最後の四部作『豊饒の海』にまで尾を引き、つながっている。一見独立して見える『潮騒』は、やはり三島的想像力の正系の嫡子であった。
(昭和四十八年十二月、文芸評論家)

(館長 杉田欣次)

主な参考文献資料等
○「『潮騒』ロケ随行記」(直筆草稿)「婦人公論」(中央公論社)一九五四年十一月号分
○「『潮騒」のこと」(直筆原稿)「婦人公論」(中央公論社)
  一九五六年九月号分
○「『潮騒』執筆のころ」「潮」(潮出版)一九六五年七月号
○「川端康成・三島由紀夫 往復書簡」(新潮社・一九九七年刊)
○「日本の面影」小泉八雲(池田雅之訳・角川文庫・二〇〇〇年刊)
○「ダフニスとクロエー」ロンゴス(呉茂一訳・養徳社・一九四八年刊)
○「希臘・羅馬紀行」一九五二年七月、紀行(「芸術新潮」三巻七号)
○長編「潮騒」一九五四年六月一〇日(新潮社)
○「『潮騒』について」佐伯彰一「潮騒」(新潮文庫・昭和三十年刊・平成十七年改版)解説

全国文学館協議会  紀要四号(二〇一一年三月三十一日)寄稿

※「紀要」は縦書きですが、都合により横書きにしてあります。

"水平展示"と"垂直展示"(近況報告)

 "水平展示"と"垂直展示"。こんな用語が文学館の世界にあるのかどうか分かりません。最近、展示はどうあるべきかを自分なりに考えていて、ふと思い浮かんだ言葉です。
 当館は、三島由紀夫を対象作家として、2008年3月に個人で開設した文学館です。例年、3月の20日間ほどを定期開館とし、あと11月までは予約来館としています。2008年の第1回の企画は「よみがえる三島由紀夫展」として、三島の生涯が一望出来る展示にしました。まさに「水平展示」ということになると思います。
 2009年は、26歳の三島の「批評に対する私の態度」という草稿を軸に、この評論が書かれた経緯を展示しました。2010年は「『潮騒』の成立をめぐって」をテーマに、三島29歳の作品である「潮騒」について、三島自身の「『潮騒』ロケ随行記」「『潮騒』のこと」の草稿などを展示し、「潮騒」の成立過程が分かる企画にしました。こうして、ほぼ5年ごとの三島に光を当てて来ましたが、みな「水平展示」と言うことが出来ると思います。
 昨年の12月5日、2010年最後の団体来館は「日本近代文学会北陸支部」の16名の皆さんでした。前日に富山大学のキャンパスで開催された支部大会に続いての日程に入れて頂いたようでした。みな教鞭をとっておられる近代文学の専門家の方々でした。
 館内を一覧されたあと、館開設の経緯と、今回の「『潮騒』の成立をめぐって」の解説をさせて貰ってからいくつかの質問を受けました。
 「5年ごとをポイントにした企画で、三島の45歳までを終えたら、次はどういう企画を立てますか」。この質問にはすぐに答えられました。日ごろから、全国文学館協議会で「工夫」ということを教わっていたからだと思います。「三島の少年時代の足跡をたどることも出来ます。三島が傾倒した作家や、同時代で親交のあった作家と対にして、響きあいを展示することも出来ます。まだまだ、沢山考えられると思います」という風に答えました。
 しかし、次のような質問には少し戸惑いました。「夥しい三島についての評論が出版されていますが、館長自身が研究をどう深め、それを展示にどう活かしていきますか」。 この質問には率直に次のように答えました。「皆さんのような専門家の三島に対するいろんな見方、解釈があります。私の三島に対する見方も一応あると思っていますが、いろんな見方を参考にさせて貰いながら、しかし偏らない企画展示を心掛けたいと思っています。客観的な、しかし深みのある展示を工夫していきたいと思っています」と。
 この時思い付いたのが「水平展示と垂直展示」という言葉でした。羅列展示と、一つの観点を深めた展示という意味のつもりです。すでに別の言葉で結論が出ている考え方かも知れません。この辺のバランスを各文学館はどのように考えておられるのか、次に全国文学館協議会に参加した時に、皆さん方のご意見をお伺いしたいと思っています。
 そんなことを考えながら、今年の「よみがえる三島由紀夫展Ⅳ」の準備をしています。


(隠し文学館 花ざかりの森 館長)


全国文学館協議会会報 第49号(2011年1月31日発行) 寄稿