旺盛な作家活動を続けた三島由紀夫は、同時に見ることに集中する「目」の人でもあった。
雑誌「芸術生活」に一九六三(昭和三十八)年八月号から一九六四(昭和三十九)年五月号まで連載した「芸術断想」の中だけでも実に多くの分野について、率直な批評を寄せている。能、歌舞伎、文楽、オペラ、新劇などの舞台芸術に加え、映画、美術展、プロボクシングの試合にまで及んでいる。筆の赴くまま、翻訳書や自作戯曲にも触れている。号を追って三島が「目」を向けた分野をたどって見たい。いずれも、掲載月のほぼ三ヶ月前後に鑑賞している。〔収録:『目―ある藝術断想』(集英社、一九六五・八)、ちくま文庫『芸術断想』(筑摩書房、一九九五・八)〕
一九六三年八月「舞台のさまざま」
「大原御幸」「竜田」(観世銕之丞の能の公演)
「フィーヨルド」(パリ・オペラ座バレエ団のバレエ公演)
「女中たち」(文学座・アトリエ演劇公演)
「三原色」(草月ホール・堂本正樹演出の演劇公演)
一九六三年九月「猿翁のことども」
「ヨーロッパの略奪」(ディズ・デル・コラール作の翻訳の本を読む)
「『島ちどり』市川猿翁の芸について」(歌舞伎役者)
「トスカ」(文学座・三島由紀夫潤色の演劇公演)
「鳥」(ヒッチコックの映画)
「俊寛」(観世静夫の能の公演)
一九六三年十月「詩情を感じた"蜜の味"」
「美濃子」(三島由紀夫作、黛敏郎作曲のオペラ公演)
「桑名屋徳蔵入舟噺」(東宝劇団の古劇公演)
「敦盛」(銕仙会の能の公演)
「蜜の味」(イギリス映画)
「妹背山」(文楽の公演)
一九六三年十一月「群集劇の宿命」
「調理場」(文学座・アトリエ演劇公演)
「桜門」(大阪新歌舞伎座公演)
「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」(英文の小説を米人の友人から借りて読む)
開場前の日生劇場を見物
一九六三年十二月「期待と失望」
「鹿鳴館」(三島由紀夫作・新派公演)
「義経千本桜」(歌舞伎座公演)
「二科展」(美術鑑賞)
「世界フライ級選手権試合」(海老原博幸対ポーン・キングピッチ)
一九六四年一月「三流の知性」
「トリスタンとイゾルテ」(ベルリン・オペラ公演)
「朝長」(観世銕之丞の能の公演)
「丸山明宏リサイタル」(サンケイ・ホール)
一九六四年二月「モニュメンタルな演技」
「先代萩」(歌舞伎座公演)
「夏の日、突然に」(民芸公演)
自作「喜びの琴」と文学座問題
一九六四年三月「英雄の病理学」
「アラビアのロレンス」(映画)
「ホセ・リモン舞踊団」(サンケイ・ホール)
「忠臣蔵六段目」(市川猿之助・東横ホール)
「野宮」(銕仙会・観世静夫の能の公演)
一九六四年四月「憤りの詩心」
「おかしな おかしな おかしな世界」(スタンリー・クレイマーの映画)
「勧進帳」ほか(武智歌舞伎公演・日生劇場)
「翁」「石橋」(銕仙会の能の公演)
「寒色」(浅野晃の詩集を読む)
「リュイ・ブラス」(コメディ・フランセズ公演)
一九六四年五月「劇場の中の"自然"」〔館内展示原稿〕
「俳優修行」(スタニスラフスキーの演劇理論書の再読)
「リチャード三世」(福田恒存演出・日生劇場公演)
「弁天小僧」(歌舞伎座公演)
「ロング・クリスマス・ディナー」(松村竹夫演出・日生劇場公演)
「芸術断想」の中で、三島は足を運んだ多様な舞台芸術を率直に論じながら、自身の「見る」ことについて、様々に自問自答している。
「期待と失望」(一九六三・十二)より抜粋
「一体、劇場の観客とは何かね。展覧会の観客とは、演奏会の聴衆とは何かね。それはただの羊になりにゆくことぢやないか。弁当殻を散らす羊のなかで、自分一人、教養のある羊だといふことが一体何だね」
「俺は本当のところ劇場には飽き果ててゐる。それは昨日今日のことではなくて、ずつと前からだ。しかし又、もし何か奇跡が起るとしたら、劇場にしか起らぬことも、心の片隅でまだ信じてゐる。だから『もしや』に惹かれて劇場をのぞき、大てい失望して帰つてくるんだ」
「お前は今でも舞台裏がすきなんぢやないか」
「舞台裏はもつとも早く魅力の褪せる場所だ。それはある事件の『真相』みたいなもので、真相なんてものにわれわれは長く付合へるわけがない。それに『真相』なんて、大ていまやかしものに決まつてゐる。いつでもすばらしいのは事件そのもので、それだけなのだ」
(略)
「俺は『見る人間』であることに疲れると、『見られる人間』のところへ出かけて行つて、疲れを癒す」
「劇場の中の『自然』」(一九六四・五)より抜粋
「俳優が自然(自分の肉体、個性、芸風その他一切)を冒瀆してゐるときには、与へられた役である場合はミス・キャストとして同情され、自ら選んだ役である場合は、傲慢や無知を嗤われるだけですむ。とにかくそれはすぐ目に見えるのである。彼自身の『自然』と戯曲そのものの『自然』との齟齬、それによつて結果的に、彼が『自然』を冒瀆してゐることは、一目瞭然である」(()は原文のまま)
(略)
「芝居とはSHOWであり、見せるもの、示すものである。すべてが観客席へ向つて集約されてゆく作業である。それだといふのに、舞台から向う側に属する人たちのはうが、観客よりはいつも幸福さうに見えるのは何故だらう。何故観客席のわれわれは、安楽な椅子を宛はれ、薄闇の中で何もせずに坐つてゐればよく、すべての点で最上の待遇を受けてゐるにもかかはらず、どうしてこのやうに疲れ果て、つねに幾分不幸なのであらう」
(略)
「芸術の享受者の立場といふものには、何か永遠に屈辱的なものがある。すべての芸術には、晴朗な悪意、幸福感に満ちた悪意がひそんでをり、屈辱を喜ぶ享受者を相手にすることをたのしむのである。そのもつとも端的なあらはれが劇場芸術だと言つてよい」
「『目―ある藝術断想』あとがき」(一九六五・八)より抜粋
「私の特徴はゆつくり見ることだ。私の友人に御飯を百ぺん噛む男がゐて、とてもじれつたくて、食卓を共にすることができないが、私の目の作用にはそれと同じ、反芻動物的なところがある」
(略)
「どんな下手な俳優でも、『見られる』ことにより輝く瞬間があるものだ。それを輝かすのは、決して光量の大きな照明器だけではない。かれらを輝かすものこそ、われわれの『目』なのである」
三島由紀夫の作家としての活動は生涯に亘って多忙を極めていた。「芸術断想」執筆当時も濃密な作家活動を継続している。その一部をたどってみる。
一九六二(昭和三十七)年
十一月 六日 「第一の性」(雑誌「女性明星」昭和三十七年十二月号~昭和三十九年十二月号まで連載)
十二月 八日 「肉體の学校」(雑誌「マドモアゼル」昭和三十八年一月号~十二月号まで連載)
一九六三(昭和三十八)年
一月 二十日 「午後の曳航」起稿
五月 十一日 「午後の曳航」擱筆
七月 四日 オペラ「美濃子」起稿
七月 十日 「芸術断想」(雑誌「芸術生活」昭和三十八年八月号~昭和三十九年五月号まで連載)
七月 十七日 オペラ「美濃子」擱筆
八月 一日 「雨の中の噴水」(雑誌「新潮」八月号)
八月 一日 「切符」(雑誌「中央公論」八月号)
八月 三日 「剣」起稿
八月二十八日 「剣」擱筆
八月 三十日~九月六日 「絹と明察」の取材で、彦根、近江八景へ行く。
十月二十四日 戯曲「喜びの琴」擱筆
十月二十六日 「絹と明察」起稿
十二月 七日 「音楽」(雑誌「婦人公論」昭和三十九年一月号~十二月号まで連載)
十二月 八日 「絹と明察」(雑誌「群像」昭和三十九年一月号~十月号まで連載)
一九六四(昭和三十九)年
五月二十七日 「春の雪」のライト・モチーフが浮かぶ。
八月 十三日 「絹と明察」擱筆
九月 九日 戯曲「恋の帆影」(雑誌「文学界」十月号)
十二月 七日 「三熊野詣」(雑誌「新潮」昭和四十年一月号)
十二月 三十日 「第一の性―男性研究講座」(集英社)
これらの作家活動の他にも、随筆、書評、推薦文の執筆、座談会、自作戯曲の稽古にも誠実に対応している。
そして、このあとライフ・ワーク「豊饒の海」に取り掛かっている。
こういう多忙な作家生活を、一九六五年以前も、そしてこれ以降も持続させながら、三島は「見る」と「見られる」のあいだを自在に行き来している。
「見られる三島」を一九六〇年代から振り返ってみる。
一九六〇(昭和三十五)年 増村保造・監督、大映映画「からっ風野郎」にやくざ役で主演。
一九六三(昭和三十八)年 細江英公・写真集「薔薇刑」のモデル。
とりわけ映画「憂國」の制作には、集中的にエネルギーを注いだ。
一九六五(昭和四十)年 |
一月 十三日(水) |
「憂國」の映画制作について、大映の藤井浩明プロデューサーと堂本正樹とで会合。 |
一月 十六日(土) |
シナリオ「憂國」擱筆。 |
一月 二十日(水) |
藤井浩明プロデューサー、堂本正樹とでシナリオをワーグナーの「トリスタンとイゾルテ」のレコードに合わせて読み合わせ。 |
一月末 |
映画「憂國」用衣装、帽子を注文。 |
二月 十八日(木) |
「憂國」の妻役を鶴岡淑子と決定。
(三月十日から二十八日まで、英国文化振興会の招待で渡英) |
三月二十八日(日) |
帰国後、私用の小さな不完全なリコピーの機械で、一生懸命「憂國」の台本を刷り始めた。 |
四月 九日(金) |
「憂國」の撮影スタジオとなる大蔵映画スタジオを見学。 |
四月 十二日(月) |
堂本正樹の紹介で、橋本氏の能舞台上で「憂國」のリハーサル。 |
四月 十三日(火) |
「憂國」カメラ・テスト。バックの「至誠」を自筆。 |
四月 十五日(木) |
「憂國」クランク・イン。 |
四月 十七日(土) |
午前四時に撮影終了。同日、総ラッシュを見る。 |
四月二十一日(水) |
大蔵映画であらつなぎの試写を見る。 |
四月二十七日(火) |
スタッフ全員と「憂國」の録音に立ち会う。 |
四月 三十日(金) |
三島由紀夫・原作、脚色、製作、監督、主演の短編映画「憂國」が完成。 |
一九六六(昭和四十一)年 |
四月 十日(日) |
「憂國・映画版」(新潮社) |
四月 十二日(火) |
映画「憂國」A・T・G・アート・シアタ系で封切。 |
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同年 |
丸山明宏のチャリティ・リサイタルにゲスト出演。 |
同年 |
矢頭保・写真集「体道・日本のボディビルダーたち」(ウェザヒル出版)のモデル。 |
一九六八(昭和四十三)年 |
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松竹映画、江戸川乱歩・原作、三島由紀夫・劇化の深作欣二・監督「黒蜥蜴」に特別出演。 |
同年 |
澁澤龍彦・責任編集「血と薔薇」(天声出版)の篠山紀信「男の死」で、「聖セバスチャンの殉教」などのモデル。 |
同年 |
「怪獣の私生活」(「NOW」三号)で、私生活を写真公開。〔館内展示原稿〕 |
一九六九(昭和四十四)年 |
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フジTV/勝プロ共同制作・大映配給、五社英雄・監督「人斬り」に出演。 |
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これらのほかに、雑誌、週刊誌などのグラビアに話題の作家として頻繁に登場している。
「怪獣の私生活」は、三島がグラビア雑誌に私生活を写真公開し、自らの変幻自在な活動を怪獣になぞらえて書いた評論である。草稿は最初、「被写体の生活」としていたのを、「怪獣の私生活」と訂正している。三島はその怪獣ぶりを楽しみ、末尾では秀逸な写真論を展開している。
「怪獣の私生活」(一九六八・十二)より抜粋
「なるほど『怪獣の私生活』といふのは面白からう。
この怪獣に名はない。しかし、四六時中、変幻自在の活動をして、人心を倦ましめない。永いこと見てゐると、大体決まつたルールに従つて動いてゐることがわかるから興を失ふが、ちよつと見てゐる分には痛快である。
この怪獣は硫黄の炎の代りに、ある有毒ガスを吐く。そのガスの名を『小説』と云ひ、このガスの毒性のゆゑに多少怖れられてゐるが、これを除けば、あとは全く無害の善意の怪獣である」(略)
「現実を停止させようといふには、アトラス以上のものすごい腕力が要る。或る所与の現実を写真に撮つて停止させようといふときに、写真家は両腕の力で地球の動きを止めてしまふのだ。そのとき、写真家は現実の『決定的瞬間』に野次馬として立ち会つてゐるのではなくて、現実を『決定的瞬間』にするかせぬかを、すべて自分の決断に委ねられてゐるのだ」
「見る三島」の確かな精神は、「見られる三島」においても揺るぎない姿勢を貫いていた。
※「紀要」は縦書きですが、都合により横書きにしてあります。
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