三島由紀夫には一〇一句の俳句が確認されている。学習院初等科学内雑誌「小ざくら」の十三句に始まり、学習院中・高等科学内雑誌「輔仁会雑誌」、月刊俳句雑誌「山梔」などへの発表のほか、自らの詩集ノートにも残しており、二十八歳ごろまで俳句を作っていた。〔収録:『決定版・三島由紀夫全集第三十七巻』(二〇〇四(平成十六)年一月十日・新潮社)「俳句・短歌」から俳句のみを抽出〕
三島が俳句への憧れを語り始めたのは、奇しくもこの二十八歳ごろからである。
六歳(昭和六年)・学習院初等科一年生
アキノヨニスゞムシナクヨリンリンリ 〔「小ざくら」昭和六年十二月〕※「小ざくら」=学習院初等科学内雑誌
アキノカゼ木ノハガチルヨ山ノウヘ 〔「小ざくら」昭和六年十二月〕
七歳(昭和七年)・学習院初等科二年生
日ノマルノハタヒラヒラトオムカヘス 〔「小ざくら」昭和七年五月〕
おとうとがお手手ひろげてもみぢかな 〔「小ざくら」昭和七年十二月〕(原文のまま)
八歳(昭和八年)・学習院初等科三年生
うららかな平和な時の春はくる 〔「小ざくら」昭和八年六月〕
秋の山幾色あるかうつくしや 〔「小ざくら」昭和八年十二月〕
九歳(昭和九年)・学習院初等科四年生
枯草の土手もいつしか青くなる 〔「小ざくら」昭和九年六月〕
猿とかに想い出すかな渋い柿 〔「小ざくら」昭和九年十二月〕
十歳(昭和十年)・学習院初等科五年生
六星霜見る間(ま)に過ぎて御卒業 〔「小ざくら」昭和十年五月〕
スチームに黒や紫のお弁当 〔「小ざくら」昭和十年五月〕
菊の花秋は花屋を一人占め 〔「小ざくら」昭和十年十二月〕
十一歳(昭和十一年)・学習院初等科六年生
我忘れ見とれる程のつゝじかな 〔「小ざくら」昭和十一年七月〕
秋晴れや紅葉(もみぢ)の庭に落葉たく 〔「小ざくら」昭和十一年十二月〕(ルビは原文のまま)
十二歳(昭和十二年)・学習院中等科一年生
笹舟のみどりに憩ふ小蟻かな (詩と創作童話ノート「笹舟」昭和十二年一月二十一日)
ふでうごくまゝに (平岡小虎詩集「こだま」昭和十二年八月十七日)
八 静寂
枯笹や芥(あくた)の溝に頭(かうべ)たれ
九 満月
月夜哉鱚(きぎす)跳ねたり波低し
一〇 鵜原(うばら)海岸にて
待ちしとて鵜鳥来(きた)らぬ鵜原哉
秋逝きて鼠の空と白き霜 (詩集ノート「聖室からの詠唱」昭和十二年十一月)〔「輔仁会雑誌」昭和十三年三月〕※「輔仁会雑誌」=学習院中・高等科学内雑誌
しもふめば こがらしふきて すそみだる (詩集ノート「聖室からの詠唱」昭和十二年十一月)
あさじもや まつちうりせうぢよ おもあをし (詩集ノート「聖室からの詠唱」昭和十二年十一月)※マッチ売りの少女
おもひでは はろかにめぐる こぞのしも (詩集ノート「聖室からの詠唱」昭和十二年十一月)
霜に落つ南天の実や我寂し(詩集ノート「聖室からの詠唱」昭和十二年十二月)〔「輔仁会雑誌」昭和十三年三月〕
はつゆきぞ くさのねのむし とくにげよ(詩集ノート「聖室からの詠唱」昭和十二年十二月)
十三歳(昭和十三年)・学習院中等科二年生
炬燵(こたつ)には陽光(ひかり)落ちたり雪の朝 (詩集ノート「聖室からの詠唱」昭和十三年一月)〔「輔仁会雑誌」十三年三月〕
雪晴れて光あまねき朝(あした)哉 (詩集ノート「聖室からの詠唱」昭和十三年一月)〔「輔仁会雑誌」十三年三月〕
十四歳(昭和十四年)・学習院中等科三年生
遠雷の音あかるしや日照り雨 (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年七月)
青城俳句聚 (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和一四年九月下旬)
蚊遣火(かやりび)の煙れる顔の夕闇(やみ)に居る (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
秋風や病める子夕陽指さして (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬) 〔「輔仁会雑誌」十四年十一月〕
茱萸(ぐみ)の実や草にふたがる山路にて (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
古き家の柱の色や秋の風 (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬) 〔「輔仁会雑誌」十四年十一月〕
百日紅(さるすべり)夕陽散り来る空屋哉 (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
秋風に窓に立つ人みじろがず (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬) 〔「輔仁会雑誌」十四年十一月〕
葉桜の葉末の空の光りかな (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
秋風や三弦(いと)の音絶えて長者門 (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
曼珠沙華(まんじゆしやげ)読経の声す寺の庭 (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
秋風して荻さかりなりし空屋かな (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
蜻蛉(とんぼう)交る雨後の光りの物憂さよ (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
栗の小道の開けて秋を薊(あざみ)哉 (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
荻の虫近寄るを見る涼亭(ちん)侘びて (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九下旬)
雁(かり)渡るや神社(やしろ)境内月夜にて (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
こゝにゐて露かゝる背の侘しさや (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
灯を連ね列車灯の町を過ぎてけり (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
影踏みの声にまぎれて呼ぶ女 (詩ノート「公威詩集Ⅱ」十四年九月下旬)
書庫のすみ埃(ほこり)うずもれ陽の吐息 (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
松風は海の光りの青さかな (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和昭和十四年九月下旬)
松風や海の青さの匂ひして (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九月下旬)
木々の影黒きレエスなり秋月夜(つくよ) (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十四年九下旬)
蜜柑むく微音(おと)や独居(ひとり)の冬の窓 (詩ノート「BadPoems」昭和十四年十二月十七日)
月冷ゆる鴨の尾羽根の光り水 (詩ノート「BadPoems」昭和十四年十二月十七日)
凍(い)てつきて言葉通はぬ冬の月影(つき) (詩ノート「BadPoems」昭和十四年十二月十七日)
裏庭(うら)の畑(はた)霜夜の月に葱(ねぎ)白き (詩ノート「BadPoems」昭和十四年十二月十七日)
十五歳(昭和十五年)・学習院中等科四年生
浜に来る外套冬の海になびき 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十五年二月〕
月は褪(あ)せ春の夜著(しる)きパセリかな (詩ノート「公威詩集Ⅱ」昭和十五年二月十七日) 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊)十五年三月〕
ふとレコード止みつ彫像の鋭き冷え 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十五年六月〕
遠雷の音明るかり邸跡(やしきあと) (「無題の詩ノート」昭和十五年七月)
散花や仏間の午後の青畳 (「無題の詩ノート」昭和十五年七月)
斑雲(まだらぐも)蝦夷松(えぞまつ)高く悲しめる (「無題の詩ノート」昭和十五年七月)
雨もよひ屋根の線憂き空を切り (「無題の詩ノート」昭和十五年七月)
ワイシャツは白くサイダー溢るゝ卓 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十五年七月〕
五月闇(さつきやみ)自転車のベル長く引き〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十五年七月〕
句(詩集「鶴の秋」十五年)
新らしき電柱なりし夏の雲 (詩集「鶴の秋」昭和十五年)
熱海埋立地
夏草にトロッコ線路あてどなき (詩集「鶴の秋」昭和十五年)
立つ人の影定まりて秋の石 (詩集「鶴の秋」昭和十五年)
謡本火屋(ほや)と立てたる秋灯 (詩集「鶴の秋」昭和十五年) 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十五年九月〕
温泉の町に秋立つといふことを
射的屋のとざしし雨戸秋の日に (詩集「鶴の秋」昭和十五年)
敗荷(やれはす)に秋の陽粉のごとくなり 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十五年十二月〕
梅擬(うめもどき)配達夫入る寺の門 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十五年十二月〕
十六歳(昭和十六年)・学習院中等科五年生
チューリップその赤その黄みな勁(つよ)し 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十六年五月〕
チューリップ風はなやぎて吹き行けり 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十六年五月〕
チューリップかなしきまでに晴れし日を 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十六年五月〕
チューリップ阿蘭陀(オランダ)皿に描きある 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十六年五月〕
洋装の祖母の写真や庭躑躅(にはつつじ) 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十六年五月〕
鹿鳴館のことども
香水のしみあり古き舞蹈服 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊)「昭和十六年七月〕
虫干や舞蹈服のみ花やかに 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十六年七月〕
遠雷や舞蹈会場馬車集ふ 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十六年七月〕
舞蹈会露西亜(ロシア)みあげの扇かな 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十六年七月〕
蛍あまた庭に放ちて舞蹈会 〔月刊俳句雑誌「山梔」(淡淡亭刊) 昭和十六年七月〕
十七歳(昭和十七年)・学習院高等科一年生
ナプキンの角するどしや冬薔薇(ふゆさうび) (東文彦宛書簡昭和十七年二月十六日)
十八歳(昭和十八年)・学習院高等科二年生
みそなわせ義恭(よしやす)大人(うし)が露の筆 〔「輔仁会雑誌」昭和十八年十二月〕
道芝の露のゆくへと知らざりし 〔「輔仁会雑誌」昭和十八年十二月〕
秋灯よのつねならぬ枕辺に 〔「輔仁会雑誌」昭和十八年十二月〕
菊水を儒門の庭に汲む日かな (年月不明)
十九歳(昭和十九年)・学習院高等科三年生、十月に東京大学法学部入学
三島由紀夫俳句帳
○昭和十九年夏本野盛幸と共に奈良を訪る、残暑甚
秋暑しホテルに過客慌しく
帽褪(あ)せしガイドを先に残暑かな
秋暑し七堂伽藍(がらん)人罕(まれ)に
弥陀仏(みだぶつ)の残暑にひそといます処
鉾杉(ほこすぎ)に残る暑さや二月堂
二十歳(昭和二十年)
○昭和廿年四月、佐藤家にて林富士馬、庄野潤三、大
垣国司と共に佐藤春夫氏を囲みて一盞(いっさん)を傾く、庄野君
出陣し、我亦(また)勤労動員に出でんとす
春衣やゝくつろげて師も酔ひませる
澪(みを)ごとに載せゆく花のわかれ哉
二十一歳(昭和二十一年)
○昭和廿一年新年詠(廿一年一月一〇)かるた会
さはさはと袂(たもと)ふれ合ひ歌留多会(カルタくわい)
かるた巧き一家そろひて来たりけり
奥の間の歌留多会へと案内(あない)かな
老執事かるた上手と知られけり
○昭和廿一年三月二日 句会
乳母車二三公園春の泥
春泥の伊豆の旅よりかへりけり
春の泥むかしがたりの二長町
おん袖のほころびいます雛(ひひな)かな
この家を姉の名残の雛祭(ひなまつり)
二十三歳(昭和二十三年)・前年十二月から大蔵省事務官に任官するが、この年九月に退官
○旧作
老博士萩しげき家(や)に住みたまふ (「随想一束」ノート二十三年)
二十八歳(昭和二十八年)
何もかも言ひ尽くしてや暮の酒 (二十八年十二月二十八)〔ドナルド・キーン「『鉢の木会』のころ」〕
竜灯の影ちりぢり水尾かな (年月不明)
三島の俳句への発言は、学習院で二年先輩だった波多野爽波が主宰する俳句雑誌「青」創刊号への昭和二十八年の寄稿に始まる。
波多野は大正十二年生まれで、学習院初等・中等・高等科を経て京都大学卒。中等科時代より高浜虚子に師事、院内に木犀会という俳句会を作り、リーダーとなる。二級下の三島は平岡青城の俳号を持っていた。戦後、波多野は「ホトトギス」最年少同人となり、「青」創刊後も子規・虚子の方法論である「写生」を深化させ、ただごとすれすれの諧謔味ある俳風を展開し、昭和初期の若い俳人に支持された。弟子に田中裕明、島田牙城、岸本尚毅、中岡毅雄らがいる。著書に「波多野爽波全集」全三巻(邑書林)がある。
〈チューリップ花びら外れかけてをり〉〈磯巾着に問ひ掛けてみたきこと〉など、晩年に秀作が多い。
(波多野爽波略歴は島田牙城氏解説による)
「青」十月号・創刊号(主宰=波多野爽波) (昭和二十八年十月一日)
「恥」より抜粋
波多野爽波氏が今度自ら主宰される句誌「青」をはじめられるといふ。その「青」といふ字から、私は自分が「青城(せいじやう)」といふ俳号をもつてゐたその昔を、なつかしく思ひ出した。青城とは、中学時代、級友から「青べうたん」だの「白ツ子」だのといふ仇名をもらつてゐた私が、青白(あをじろ)さをもぢつてつけた号である。(中略)
小説家になつてから、私は文字といふもののあのやうな微妙なニュアンスを楽しむ余裕をなくしてしまつた。「散文的」とは、よく云つたものだ。(中略)
今泊まつている熱海ホテルで、この間燈籠流しの催ほしがあつた。潮に揺られて、ふくらんだり、しぼんだり、寄つたり、散つたりしながら、徐々に沖へ動いてゆく数百の燈は、三階の非常階段の上から見るとき、最も美しかつた。私は駄句の一つぐらゐ浮んで来ないかと待つたが、悲しいかな、感動は二度と俳句の形をとつて私を訪れることはなさそうであつた。(以下略)
「青」三月号(昭和三十年三月一日)
波多野爽波氏への私信より抜粋
(俳句の)社会性などチャンチヤラをかしいと思つてをりますので、その節は新傾向への憎まれ口を書かしていただきたいと存じます。(以下略)
「青」五月号(昭和三十年五月一日)
「花鳥とは何ぞ」より抜粋
耕や鳥さへ啼ぬ山陰に 蕪村
この「鳥」の一字の相対的な重みは、たとへば、俳句の外の社会で使はれる「革新勢力の結集」などといふ重さうな言葉の、数万倍も重いのです。そして又、二百枚の小説の中で使はれる「鳥」といふ言葉の、数千倍も重いのです。
いふまでもなく、言葉は社会的機能を果します。しかしそれが詩語となつて抽象的機能を果すためには、言葉が一旦、詩的形式に濾過されて、変質されなければならない。ところが、変質の最高度に可能な言葉と、不可能な言葉とがある。花鳥諷詠といふ原理は、おそらく、変質の可能性の高度なものだけで、俳句の宇宙を組み立てやうといふところにあるのでせう。(中略)
五七五といふ短詩型は、かういふ詩的可能性の網羅によつて、はじめて詩たりうる、と私は考へます。ですから、このやうな極端な短詩型が可能になつたのは、詩的素材にのみ依拠して詩、いはば詩の詩たるところにあつたわけです。こんな瞬時にをはる短詩型では、詩的変質度の低い言葉を、詩にまで昇華させる余裕がないのです。(以下略)
「青」一月号(昭和三十二年一月二十日)
「『鋪道の花』の芽生えの頃」波多野爽波氏初句集への批評より抜粋
爽波兄、初句集をおめでたう。とは云つても、兄の初句集がたしかに遅すぎた。(中略)
昭和十五年、六年の兄の年齢から云ふと少年であるが、われわれ下級生の目には立派な先輩に見えてゐた。だから兄の名句を見ても、驚嘆はしても、ふしぎとも思はなかつたのであるが、今日、兄のそのころの句を読み返すと、少年とは思へぬ犀利正確なデッサンに目を見張るのである。学習院の句会で群雞の一鶴だつたばかりでなく、これくらゐの年齢でこけだけの句境に達し、しかしいささかの老成したイヤ味もなく、青春の清潔さの匂ふような例は、稀有であらうと思はれる。(中略)
当時少年の私がいかに驚嘆し、いかに憧れたか、今もありありと思ひ出される。私の俳句はヘンな老成した野暮つたい、いささかも詩心のないものだつたのである。そこで自分の中の少年期青年期の、孤独な感覚を、兄が代つて見事に表現してくれる喜びを感じてゐた。(以下略)
「鯉」十一月号・百号記念特輯(昭和三十三年十一月五日)
「蝶の理論」より抜粋(展示資料)
日本には古来、『大きな理論』は全部外国の借り物で、『小さな理論』だけが、俳句のやうなその精華に達した。ここにはあらゆる『小さな理論』がそろつてゐる。たとへば秋には、秋風の理論が、紅葉の理論が、山雀の理論が、春には蝶の理論が‥‥‥‥。
私はもう俳句を作ることもできず、その才能もないくせに、日本の季節々々が、かういふ小さな美的理論で、モザイクのやうにぎつしり詰まつてゐることを感じると、いつまのにか、その理論にきつちりとはまつてゐる自分を痛感することがある。長い冗々しい長編小説なんか書いて、自分が巨人国の仲間入りをしたやうな気になつてゐて、ふと気がつくと、それは夢で、もともと親指サムぐらゐな背丈しかなかつたことに気のつくやうなものである。
「蝶の理論」を俳誌「鯉」に寄せた経緯
「鯉」への入会を勧められたが、忙しさのために辞退し、請われるまま書いた原稿である。三島の誠実さが伝わる。
「鯉」主宰の出牛青朗が埼玉新聞に寄稿(昭和四十五年十二月十七日)より抜粋
「青橙句会」
かれこれ十年以上も前の話だが、(中略・筆者が「青橙句会」の三丁さんを病院に見舞うと)「あゝ、先生いいところに来た、今この二人にね、『鯉』に入会しろとくどいていたところですよ」と高血圧の病人とも思えない大声で笑って、「紹介します、これ平岡公威君、通称三島由紀夫、そっちは母親の倭文重、僕の妹です」というのであった。 (中略)
話は私を交えて再び俳句のことになり、学習院時代に先生からすすめられて句作したこと、句会や吟行にも何度か出席したこと、向島の百花園で雪洞を灯して虫を聞き乍ら句を作った話等をした。小説家の俳句では芥川が一番好きだ、と言った。
「時々、句を作りたいなあ、って思うことがあるんですがどうもうまくまとまらない。日記を書いた後でしばらく考えていることがあります」
「だから『鯉』に入会して『青橙句会』に出席しなさい、って言ってるんだ」
「のんびり句作を楽しみたいのは山々なんですが、何にしろ忙がしくって‥‥今日もこれから芝居が待っているんです。芝居をやった後で歌をうたうことになっているんです」
母子が腰をあげると、三丁さんは「じゃあ句会は又にして『鯉』に何か書いてくれ、昔の思出話でもいいよ」という。
「ええ、書けたら書きます」「書けたら、じゃあなく、きっと書くんだ」「はい、はい」
二人が外へ出ると三丁さんは、「なあに、そのうちきっと句を作り出しますよ」と、自信に満ちていった。
一月ばかりで三丁さんは退院した。そして間もなく三島氏の原稿を届けてくれた。原稿用紙四枚の短い随筆で「蝶の理論」というむずかしい題名が付いていた。句作の思出と、独乙と仏蘭西と日本の国民性を比較して、日本に俳句が生まれた必然性を解いた文章であった。
三丁さんが退院して、「青橙句会」は又元通り開かれた。しかし、期待していた三島母子は、それから一年半後に三丁さんが同じ病気で不帰の客になるまで、遂に「青橙句会」には姿を見せなかった。 (以下略)
「青」七月号(昭和三十七年七月二十日)
「俳句と孤絶」より抜粋
ただの手なぐさみの俳句ではいつまでたっても素人の遊びにすぎず、その俳人の心の中に、五七五といふ檻にふさはしい限界状況がひそんでゐなければならぬ筈である。何か、決して人に向っては云へない秘密の、俳句のみが心の小さな窓であるやうな、さういふ状況を俳人の心に想像するのは、私のあまりにも小説家的想像力であろうか。 (中略)
今、私の脳裏で、ささやかな幸福な句会をひらいてみて、その席に一等ふさはしい俳人はと考へると、高浜虚子を以て最後とする。ある意味では、虚子は「最後の俳人」であり、「最後の幸福な芸術家」だったのであろう。
「俳句」十一月号(角川書店・昭和四十三年十一月一日)
「波多野爽波・人と作品」より抜粋
戦時中の学習院では、私は小説の第一人者を以て自ら任じてゐたが、俳句となると、波多野氏の足許にも及ばなかつた。私が俳句から間もなく遠ざかつたのには、模しても及ばぬ氏の俳人としての才能に、スゴスゴ尻尾を巻いて逃げ出したといふ趣があった。
それほど氏の俳句は、最初から完成して、しかもみづみづしく、感覚が新鮮で、群を抜いてゐた。(以下略)
文中、三島は年代別に好きな句を挙げて批評するだけでなく、末尾に三十六の句を挙げて(一)昔ながらの波多野氏、(二)氏が新たに得た深い象徴味、(三)鬼気、(四)人生的寂寥と四つに分類している。
このような批評眼をもった三島を失った波多野氏の衝撃と嘆きはひとしおではなかった。
「俳句」十月号(角川書店・昭和四十六年十月一日)
「遥けき人ら」波多野爽波より抜粋
わが友、三島由紀夫君が昨年十一月二十五日、忽然とあの世に行ってしまった。
私の受けたショックは大きく、その後新聞や雑誌を賑わした三島事件に関する数々の報道や論評など一切目も通さずに過ごした。
三島君との交遊について求められた寄稿なども、結局どれ一つ書かずじまいで終わってしまった。当時としてはとてもペンを執る気持にはなれなかったからである。
三島君は学習院時代、私の二級下のクラスに居り、私の弟とは幼稚園時代から高等科まで同クラスであった。 (中略)
ともあれ三島君の突然の死によるショックは私にとってまことに深刻であった。
虚子先生という唯一無二の師を失ったあと私の作句活動にはいつも三島君の目を感じていた。「どこかで三島の目が光っているぞ」と自らに言い聞かせて、ともすれば萎えがちな力をふりしぼって頑張ってきたここ十年ほどであったからである。 (以下略)
三島は、晩年近くまで、俳句という短詩型の可能性と句作への憧れを縦横に語っているが、二十八歳以降の俳句は確認されていない。辞世の二首を別にすればほぼ同じころから短歌からも遠ざかっている。詩作においてはさらに早く、二十五歳ごろから離れている。
三島が自らその経緯を語ったのが小説「詩を書く少年」(昭和二十九年八月・文學界)であり、作品集「詩を書く少年」(角川小説新書・昭和三十一年六月三十日)の「おくがき」にはその思いを明瞭に綴っている。
作品集「詩を書く少年」(昭和三十一年六月一日・角川書店)「おくがき」より抜粋
「詩を書く少年」は、いはば私小説である。自分が贋物の詩人である、或ひは詩人として贋物であるといふ意識に目ざめるまで、私ほど幸福だつた少年はあるまい。その目ざめから以後、私は小説家たるべき陰惨な行程を辿るのであるが、あのやうな幸福感を定着したいといふ思ひが、たまたまこの小品の形をとつた。
三島は死の二年前に、さらに端的な言葉で自己分析している。
「花ざかりの森・憂国」(昭和四十三年九月十五日・新潮文庫)「(自作)解説」より抜粋
少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入ったものと思われる。いずれも、より構造的、より多弁、より忍耐を要する作業へ、私が私を推し進めた証拠でもあり、より巨きな仕事の刺激と緊張が、私にとって必要になったことを示している。
しかし、俳句への憧れは生涯に亘って心の一角を占め続けていたようである。
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