展示品>館長室たより 2017年

小さな文学館の大きな喜びⅣ(近況報告)

 映画「美しい星」を観ました。三島由紀夫の唯一のSF小説と言われている小説の映画化です。1962年の三島作品で、その前年には、ソ連がメガトン級の大型核爆発実験を実施し、内閣に放射能対策本部が設置されています。もしかすると、世界の終末が来るかも知れない。三島は明らかに、人類滅亡の危機を踏まえて小説「美しい星」を発想したようです。小説は「核戦争の危機」に由来していますが、映画は「地球温暖化」をテーマに時代設定も現代に置き換えていました。映画の、自分たちが星から地球に遣わされたと思い込んでいる人たちの言葉は、みな腑に落ちました。三島の言葉がふんだんに盛り込まれ、原作の意図は十分に伝わったのではないかと思います。原作発表から五十余年を経て、映画化を完遂した吉田大八監督の崇高な志に敬意を表したいと思いました。
 今年の、例年通りの3月の年1回の開館10周年記念展は、「『金閣寺』の成立をめぐって」でした。併催の「3.11 文学館からのメッセージ」のミニ展示は「『美しい星』と人類救済の試み」でした。2013年以来、継続していました。
 今年の企画展開催前に、映画「美しい星」のプロデューサーからご連絡を頂き、ポスター、チラシを送って頂いていました。改めて「美しい星」のミニ展示のPRをすることができ、同映画の宣伝もできたのは今年の収穫でした。
 さて、今年の企画は「金閣寺」でしたが、来年は、「金閣寺」の後に書いた小品「橋づくし」をテーマにしようと思っています。この準備を進めていく過程でも、面白い発見や出会いがありました。「橋づくし」は東京・築地の、願掛けの橋渡りを題材にした洒落た短篇ですが、この作品を書いた切っ掛けを探るだけでも、いろいろの発見がありました。近松門左衛門の「心中天網島」の「名ごりの橋づくし」が切っ掛けだったと三島自らが語っていますが、当時の築地には、願掛けの橋渡りという風習はありませんでした。この題材をどこから得たかと調べていくうちに、このことを考察した幾つかの研究論文に出合いました。
 その著者の一人は、以前、全国文学館協議会の事務局にいらっしゃった大木志門さんでした。大木さんは、今は、山梨大学で教鞭を執っておられるのですが、金沢にも住んでおられたことがあり、浅野川の橋渡りの習俗を紹介しておられました。広島国際大学のダニエル・ストラックさんも、「橋づくし」の背景にふれて論文を発表しておられました。
 目下、これらの先行研究の著者に感謝しながら、企画の概要を固めているところです。来年も、小さな企画ではありますが、分かり易くて納得してもらえる展示にしたいと準備を進めているところです。



(2017年8月)
(隠し文学館 花ざかりの森 館長)

全国文学館協議会会報 第69号(2017年10月6日発行) 寄稿


小さな文学館の大きな喜びⅢ(近況報告)

 「純文学系の雑誌が右肩下がりなのに、その新人賞の応募者ばかりが伸びている」。昨年11月、富山で開催された日本文藝家協会主催の「人口減少と文学」と銘打ったシンポでのパネリストからの発言です。作家の関川夏央氏の司会進行で、歴史学者の磯田道史氏とエッセイストの酒井順子氏がそれぞれの思いを語られました。酒井氏が導入で、富山の特色である海運から鉄道、浄土真宗と仏壇を語り、流れは、テーマである人口減少に伴う文学産業や出版界の衰退に及びました。冒頭の発言は、そこでの磯田氏の発言です。しかし、最後はやはり地元へのリップサービスか、「富山県の高い幸福度が日本の将来像の指針である」と結ばれました。
 富山県人としてはこの結びを評価しながらも、文学館に関わる者としては、やはり言ってみれば同じ〞文学産業〞のいち分野を担うだけに、複雑な気持ちで聞きました。しかしながら、出版産業の衰退は今に始まったことではありません。それがどう進行しようと、だからこそ活字文化を守るために文学館の役割が大きいのだとすぐに思い直しました。
 このシンポは日本文藝家協会の全国巡回の半年ごとのイベントで、今回が9回目になるそうです。日本文藝家協会の著作権管理部の担当でした。
 「今日のパネラーの著作物についても、知的財産であるということを尊重して利用して頂きたい」。シンポが終わってから、その啓発のための説明もありました。
 実はこの日の午前、この協会の著作権管理部長が当館に来館されていました。1か月ほど前の予約で、昨年最後の予約来館でした。
 シンポとともに、その地域の文学館を視察するのも、巡回の大切な役割だそうで、光栄に思いながらも緊張してお迎えしました。通常一般の来館者と同じ基本的な解説をさせて頂いたあとゆっくり展示を見てもらいました。
 展示室から出て来られた第一声が、「思っていたよりもしっかりした展示でした」。多分、厳しくチェックされるのではないかと思っていただけにほっとしたものでした。気を好くして、日本文藝家協会の仕事について、いろいろな質問をさせてもらいました。沢山の作家の著作物を扱い、翻訳権にまつわる契約には大変神経を使っておられるとのことでした。
まったく当館の運営とは比較にならない業務ですが、午後のシンポとともに改めて文学館の役割を認識させられた一日でもありました。
 さて、本年2月末からの開館10周年記念の企画展は、「『金閣寺』の成立をめぐって」です。勿論、著作権法の趣旨を尊重し、目下、準備作業は最終調整段階に入っています。



(2017年1月)
(隠し文学館 花ざかりの森 館長)

全国文学館協議会会報 第67号(2017年1月31日発行) 寄稿


三島、決断の時―『盗賊』から『仮面の告白』へ―

三島由紀夫は、『盗賊』を経てから相当の決心で『仮面の告白』に臨んでいる。その前後の主な活動の軌跡を、この二作品を中心に辿る。

昭和二十二年(一九四七年)
 八月 「夜の支度」を《人間》に発表
 十一月二十日(木) 短編集「岬にての物語」桜井書店刊
 十一月二十八日(金) 東京大学法学部卒業。卒業式には出なかった。
 十一月 《巨匠》という雑誌に、「盗賊」第四章を寄稿することにし、「盗賊はしがき」に発表の経過と三章までの梗概を書くが、結局発表しないことになる。
 十二月 「自殺企図者」[←「盗賊」第二章「決心とその不思議な効果」]を《文学会議》に発表
 十二月十三日(土) 高等文官試験に合格する。
 十二月二十二日(月) 「出会」[←「盗賊」第三章]擱筆
 十二月二十四日(水) 大蔵省に初登庁。大蔵事務官に任命され、銀行局国民貯蓄課に勤務する。当時大蔵省は、焼け残った四谷第三小学校を仮庁舎としていた。
昭和二十三年(一九四八年)
 二月 「恋の終局そして物語の発端」[←「盗賊」第一章「物語の発端」]を《午前》に発表
 二月十一日(水) 「嘉例」[←「盗賊」第五章「周到な共謀(下)」]擱筆
 三月 「出会」[←「盗賊」第三章]を《思潮》に、「嘉例」[←「盗賊」第五章「周到な共謀(下)」]を《新文学》に発表
 三月二十三日(火) 清水基吉宛葉書(役所と執筆で綱渡りの生活をしていること)。伊東静雄宛封書(あわただしい生活の中で、高い精神を見失うまいと努めるのは困難であること)。
 三月三十日(火) 『盗賊』の出版契約を真光社と結ぶ。
 六月 「宝石売買」を《文芸》に発表
 六月十二日(土) 朝四時半まで講演原稿を書き、役所は遅刻。正午に大蔵省を出て渋谷の国学院大学へ。「古今集の古典性」を講演、四時に終了
 七~八月 出勤途中の朝、勤めと執筆による過労のため、渋谷駅でホームから線路に落ちる。事なきをえたが、この事故をきっかけに大蔵省を辞職し職業作家となることを父・梓が許す。この頃、梓は《人間》の編集長・木村徳三を訪ね、三島の将来性について問いただしている。(木村徳三「文芸編集者その跫音」)また、大蔵省の丸山英人や和田謙三に、生活のために書くと作品がいじけたものになるので役所に入ったが、両立し難いので辞めざるをえないと語る。
 八月下旬 十一時五十分頃、河出書房の坂本一亀と志村孝夫が、書き下ろし長編小説の依頼で大蔵省仮庁舎に来訪。快諾する。ちょうど長編を書きたいところだった、この作品に作家的生命を賭ける、これを機会に大蔵省を辞めると言う。
 九月二日(木) 大蔵省に辞表を提出する。
 九月二十二日(水) 辞令を受け依願退職となる。挨拶を済ませると、講演と座談会をこなし、徹夜で小説を書く。
 十月 「美的生活者」[←「盗賊」第四章「周到な共謀(上)」]を《文学会議》に発表
 十月二十六日(火) 七年ぶりで乗馬を始める。
 十一月二日(火) 坂本一亀宛封書(書き下ろし長編は十一月二十五日に起筆し、題を「仮面の告白」とする、原稿用紙がほしいこと、今度の小説は自分で自分の生体解剖をする試みである)。
 十一月二十日(土) 『盗賊』(川端康成の「序」がつく)真光社刊
 十二月 河出書房から戦後派作家を結集した雑誌《序曲》が創刊される。「獅子」、船山と島尾を除く同人の座談会「小説の表現について」を掲載、「編輯後記」も執筆
 十二月一日(水) 短編集『夜の仕度』鎌倉文庫刊
昭和二十四年(一九四九年)
 二月二十四日(木) 「火宅」を俳優座創作劇研究会が有楽町の毎日ホールで初演
 二月二十八日(月) 短編集『宝石売買』(渡辺一夫の「偽序」がつく)講談社刊
 三月上旬 「仮面の告白」の原稿、前半250枚を坂本一亀に渡す。
 四月二十四日(日) 「仮面の告白」の原稿、後半部分を坂本一亀に渡す。ただし、これをいったん取り戻し、書き直して二十七日に擱筆し再度渡したものと思われる。武田泰淳が、神田の喫茶店ランボオで原稿を渡す場面を目撃する。
 四月二十七日(水) 「仮面の告白」擱筆。
 六月 「天国に結ぶ恋」を《オール読物》に発表。
 六月九日(木) 平凡社「現代世界人名辭典」アンケート葉書を投函。主要著作物に、短編集「宝石賣買」(講談社一九四九年四月)、(※四月は二月の誤認)
 「夜の支度」(鎌倉文庫一九四八年十二月)と記載
 七月五日(火) 『仮面の告白』河出書房刊。「書き下ろし長篇小説月報五」がつき、「『仮面の告白』ノート」が収められる。
 八月十五日(月) 作品集「魔群の通過」河出書房刊
 九月二十日(火) 平凡社『現代世界人名辞典』にアンケート結果掲載
 十一月十九日(土) 「灯台」を大阪放送劇団+関西実験劇場が大阪の文楽座で初演
 十二月三日(土) 「聖女」を劇団制作場が大阪の三越ホールで初演
 十二月四日(日) 「灯台」をテアトロ・トフンが京都労働会館で上演
 十二月二十六日(月) 「一九四九年讀賣ベスト・スリー」に『仮面の告白』が、六人の作家によって選ばれる。

※年譜の参考資料
○「決定版三島由紀夫全集」第四十二巻・新潮社刊・二〇〇五年八月三〇日・「年譜」の項
○「三島由紀夫『日録』」安藤武・未知谷刊・一九九六年四月二五日



『盗賊』から『仮面の告白』までの精神の軌跡を第三者の証言(抜粋)を交えて辿る。

「盗賊」まで
昭和二十一年五月十二日 木村徳三 宛(封書)                      (封書署名)平岡梓内 公威
 今日はゆつくりお話承はり、作品についても詳しい批評をうかゞへ、大喜びでをります。「盗賊」第一章は破綻が目立つ由、第二章はよいとのことでございましたが、帰宅して読み返しみますと、第二章も破綻だらけ、俗悪だらけ、甘つたるさ横溢の趣で、大斧鉞を加へねばなりませぬ。 (本文署名)平岡公威

昭和二十一年五月三十日 富士正晴 宛(封書)                   (封書署名)平岡方 三島由紀夫
 二月から最初の長篇「盗賊」350枚予定にとりかゝりました。それからたつぷり四ヶ月休みなしにつゞけてやつと250枚です。そのためたま〳〵体が弱り、無理が利かなくなりました。九月には学期試験を控へております。少々死に物狂ひです。 (本文署名)平岡公威

昭和二十一年六月十五日 川端康成 宛(封書)                          (封書署名)平岡公威
 「盗賊」第二章書直し、又第四章へ戻つてをりますが、遅々として捗りませぬ。今年中かゝつて、さいの河原の石塔のやうに崩しては積み、積んでは崩してまゐりませう。 (本文署名)平岡公威

昭和二十一年七月六日 川端康成 宛(葉書)                           (封書署名)平岡公威
 拙作「盗賊」、どう考へてみましても下らなさが身にしみ、こんな莫迦げた作品を存在させるのも罪悪のやうな気がしまして、未完の原稿を、なか〳〵引張り出せない戸棚の奥の奥へ押し込めました。これでもう出てまゐりません。やつとサバ〳〵いたしました。今度第一章もお返しいたゞき、幽閉いたさうと存じます。(略)
 半年間の熱病でございました。

昭和二十八年七月二十五日(評論)
 「盗賊」あとがき
 発表方法が好加減であつたためもあらうが、この作品は一向人の口の端に上らなかつた。作者自身にも、完成の喜びはなかつた。当時、大衆文学だの基督教の牧師の随想だの子供の本などを雑然と出してゐた真光社といふ小出版社から一冊の本になつて出されたが、本屋は出すと間もなくつぶれてしまつた。これ別段「盗賊」のせゐではない。
〈初出〉三島由紀夫作品集1・新潮社・昭和二十八年七月二十一日

昭和三十年七月二十五日(評論)
 「盗賊」ノオトについて
 齢不惑にも達せざる作家が、それも習作的長篇のノオトを公開するとは、実に恥づべきわざであります。しかし作家の虚栄心と我執は、時として、なりふりかまはぬ現はれ方をする。(略)
「当時まで、私の文学的体験の最大のものは、レイモン・ラディゲの小説であつた。子供らしい夢想から、私はラディゲの向うを張りたいと思つてゐた」
 この小説の制作年月は次のやうであります。
   書き出し…………一九四六年正月
   中絶(第四章未定稿まで) ……同年夏
   第五、第六章(完結) …一九四八春
 だから、このノオトを世に送る唯一の理由は、小説を書くごく若い人たちに示して、最初の長篇小説を書くことの、精神的困難のあとを如実に見てもらひ、いかにその制作が、不断の自己弁護に裏づけられねばならなかつたかを読みとつてもらつて、以て後車の戒めとしてもらふことにしかないでせう。
〈初出〉「創作ノオト・盗賊」私のノート叢書3・ひまわり社・昭和三十年七月二十五日



 決断の時、前後
「『仮面の告白』のころ」(証言)坂本一亀
 国電四ツ谷駅前の大蔵省木造庁舎に、(略)三島由紀夫氏を訪ねたのは、昭和二十三年の八月下旬だった。(略)〞書き下ろし長篇小説〟の執筆依頼である。三島氏はふたつ返事で快諾した。このシリーズの第一回・椎名麟三氏の『永遠なる序章』は二カ月前に刊行されていた。三島氏は……ちょうど長篇を書きたいところであった、自分はこの長篇に作家的生命を賭ける、ということをハッキリした語調で語った。そして、これを機会にここをやめるつもりだ、と言う。
〈初出〉「文芸」第十巻第二号・河出書房新社・昭和四十六年二月号

「文芸編集者 その跫音」の「作家白描」のうち、「三島由紀夫」(証言)木村徳三
 その頃である。(文脈から、昭和二十三年八月下旬と推測される)ある日、三島君の父君平岡梓氏が鎌倉文庫に私を訪ねて来た。(略)来訪の趣旨は、要するに、息子ははたして一流の作家になれるかどうか、その判定を承りたいということだった。(略)
「……あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、雛妓、半玉を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで椎名麟三さんのようになれるものですかね。朝日新聞に載るような一人前の小説家になれますか。どうお考えなのでしょうか……」
 (略)私は返答に窮した。
「作家には運、不運がありますし、作品が読者に受けるかどうかという問題もありますから、三島君が花形作家になれるかどうか、そういうことは私にはお答えできません。ですけど、三島君が一本立ちの作家になれるかということでしたら、私はなれると思います。それだけの力量をお持ちだと思っています」(略)
 この父君の来社を私は三島君に報告しなかった。(略)
 間もなく三島君は大蔵省を退いて作家生活に入った。
〈初出〉TBSブリタニカ・昭和五十七年六月二十一日

「息子の文才を伸ばした両親の理解と愛情」(鼎談)平岡倭文重(母)、三島由紀夫、田村秋子
母 あなたが、夜中に電灯をつけて書いているでしょう。それがお父様に見つかって、「とんでもない奴だ」とおっしゃって、私、何度怒鳴られたかしれないの。あなたには言わなかったけれど……。そんな状態が、二カ月余りつづきましてね、この人もとうとうたまりかねたのでしょう。父親に、どうか大蔵省をやめさせてほしい、小説家で身を立てさせてほしいと、繰返し繰返し頼んだのですけれど、主人は、「馬鹿なことを言うな、絶対に許さん」と、頑として受けつけませんの。(略)」
〈初出〉「主婦之友」昭和二十七年十二月号

「倅・三島由紀夫」(証言)平岡梓
 ある日倅が帰宅しての話に、
「今朝渋谷駅で気持ちがフラフラしていたが、雨の日にゴム長靴だったので、すべってホームから線路に落ちてしまった。幸い電車が来なかったので急いでホームに這い上ったけどほんとに危なかった」と言うのです。
 命あっての物種、僕は事ここに至ってはもはや詮なし、とついに百年の大計を討捨て、「役所をやめてもよい、さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡しました。
 昭和二十三年九月退官、二十三歳でした。
〈初出〉「諸君!」文芸春秋・昭和四十六年十二月号~昭和四十七年四月号まで連載

「現代世界人名辞典」平凡社・昭和二十四年九月二十四日
アンケートに対する回答葉書
【表面】
〔消印〕24・6・9
 郵便往復はがき〔返信〕
  東京都中央區日本橋呉服橋三ノ五
           (日本橋局區内)
平凡社
 現代世界人名辭典編集係 御中

  渋谷区大山町十五
   平岡方
    三島由紀夫(「夫」は剥がれ)

【裏面】
一、 氏名(フリガナ)本名別名
  筆名―三島由紀夫(ミシマユキオ)
  本名―平岡公威(ヒラオカキミタケ)
二、 生年月
  大正十四年一月十四日
三、 出生地
  東京に生る
四、 學歴、専攻科目及學位
  學習院初等科、中等科、高等科を経て
  東京大學法学部法律學科に學ぶ。法學士。
五、 職歴
  大蔵省銀行局に約半年勤務す。(※「勤務せるも…」を訂正)
六、 主要著作及業績
  短篇集「宝石賣買」(講談社1946年4月)(※「4月」は「2月」の誤認)
  「夜の仕度」(鎌倉文庫1948年12月)
七、 現職及所属團體
  「近代文學」同人(※「序曲」同人を削除)
八、 現住所
  東京都渋谷区大山町十五 平岡方
  電話・渋谷一〇一五

現代世界人名辞典」平凡社・昭和二十四年九月二十四日
【掲載文】
 ミシマユキオ 三島由紀夫(1925―)
小説家。本名平岡公威。東京生。學習院をへて東京大學法学部卒業。
大蔵省に入り半年で辭職。近代文學同人で、戦後派の一人である。
宝石賣買、夜の仕度の著がある。

「私の遍歴時代」(評論)
 こうして私はいよいよ、少年時代からそうなりたいと思っていたところの小説家というもの、職業的文士というものになった。
 (略)ついに私も、息苦しい一般社会の圧力をのがれて、アウトサイダーばかりの部落におちつき、ほっと一息ついたのである。
〈初出〉「東京新聞」昭和三十八年一月十日~五月二十三日(夕刊)まで連載


「仮面の告白」へ
昭和二十三年十一月二日 坂本一亀 宛(封書)                   (封書署名)平岡梓内 三島由紀夫
 さて書下ろしは十一月廿五日を起筆と予定し、題は「仮面の告白」といふのです。(略)
 今度の小説、生まれてはじめての私小説で、もちろん文壇的私小説ではなく、今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしようといふ試みで、出来うる限り科学的正確さを期し、ボオドレエルのいはゆる「死刑囚にして死刑執行人」たらんとするものです。相当の決心を要しますが、鼻をつまんで書きます。 (本文署名)三島由紀夫

昭和二十三年十一月二日 川端康成 宛(封書)                 (封書署名)平岡梓内 三島由紀夫
 私、近頃、怠け者になり仕事も〆切間際にいそがしがるやうなことばかりやつてをりまして、お恥ずかしく、十一月末よりとりかゝる河出の書下ろしで、本当に腰を据えた仕事をしたいと思つてをります。「仮面の告白」といふ仮題で、はじめての自伝小説を書きたく、ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で、自己解剖をいたしまして、自分が信じたと信じ、又読者の目にも私が信じてゐるとみえた美神を絞殺して、なほその上に美神がよみがへるかどうかを試したいと存じます。ずいぶん放埓な分析で、この作品を読んだあと、私の小説をもう読まぬといふ読者もあらはれようかと存じ、相当な決心でとりかゝる所存でございますが、この作品を「美しい」と言つてくれる人があつたら、その人こそ私の最も深い理解者であらうと思はれます。しかし、日本戦後文学の世界のせまさでは、又しても理解されずに終つてしまふかとも思はれますが…… (本文署名)三島由紀夫

昭和二十四年七月五日(評論)
 「仮面の告白」ノート
 この本は私が今までそこに住んでゐた死の領域へ遺さうとする遺書だ。この本を書くことは私にとつて裏返しの自殺だ。飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る。この本を書くことによつて私が試みたのは、さういふ生の回復術である。
〈初出〉「書下ろし長篇小説月報5」・河出書房・昭和二十四年七月五日

昭和二十六年十二月十七日(評論)
 「禁色」は廿代の総決算
 「仮面の告白」―は誰にも読まれないかと心配してゐたのに、案外売れたし評判が良かつた。神西清さんや福田恒存さんが非常に褒めてくれたりして、自分の仕事といふものにはじめて方向がつかめた。それまでお話を書くといふことが小説を書くことだといふふうに思つてゐたのだが、その時になつて、小説を書くことがどんなにおそろしい作業かといふことがわかり出した。一番人間的な仕事であるといふことと、同時に一番非人間的な作業であるといふ、この二面を表裏とするものだと知つた。
〈初出〉図書新聞・昭和二十六年十二月十七日

昭和三十八年十一月二十九日 中村光夫 宛(封書)                    (封書署名) 三島由紀夫
 永い年月のあとに、このやうな稠密精到な分析と評価を賜はつた「仮面の告白」といふ作品は、よほど幸運な作品と思はれますが、それだけに、「仮面の告白」を完全に吹つ飛ばしてしまふやうな作品を、その後書いてゐないやうで心細く、処女作を乗り超えるといふ作業がだん〳〵難事業に思はれてくるのは志の弱りかもしれません。どう考へても、小説には青年の蛮勇と老年の洗練と、二つの矛盾したものが同時に必要なのです。それがわかつて来たころには、蛮勇を失つているといふ嘆きは、全部の小説家共通のものでせう。 (本文署名)三島由紀夫

三島は、「仮面の告白」によって作家が立っているべき位置を発見すると同時に、作品が読売新聞の昭和二十四年度のベスト・スリーに選ばれることにより作家としての不動の地位を確保した。

※初版時の『假の告白』は、新字体の『仮面の告白』に統一した。
※(※)印しは当館

全国文学館協議会  紀要十号(二〇一七年三月三十一日)寄稿
※「紀要」は縦書きですが、都合により横書きにしてあります。